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31.滴る雫

 頬を伝う雫は雨粒か、涙か。滴るそれらを肌で感じながら景介(けいすけ)を抱き締める。 「報酬は頼人(よりと)でいいよ」  照磨(しょうま)の声だ。後ろから聞こえてくる。しかし、振り返る余裕はない。景介の背に顔を埋めたまま耳を傾ける。 「僕に頼人の一番を頂戴」 「は?」 「キミにはもう必要ないでしょ?」 「~~っざけんな!! アイツのこと何――!? ルー……?」  一層強く抱き締めた。『本当のことを教えて欲しい』などと言ったくせにそれを拒むような行動を取ってしまう。意気地のない自分が心底嫌になる。 「おいっ!! 待てよ!! アンタッ!!」  返事はない。代わりに乱暴な足音が聞こえてくる。駅員のようだ。ルーカスが行った暴挙、改札を飛び越えた件について説明と謝罪を求めている。 「ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした」  景介が代わって対応をし始めた。彼は何も悪くない。悪いのは自分だ。伝えなければ。 「あ………っ」  口が動かない。回した腕を解くことすらも。こんな時、頼人ならどうするのだろう。降りしきる雨の中、そんな取り留めもないことをただ延々と考え続けた。  ――気付けば駅員の姿も照磨の姿もなく、景介に引っ付いていたはずの体も離されていた。駅員と話しをしている間に移動したのか頭上には屋根がある。雨にこそ(さら)されなくなったが濡れた体はそのままだ。 「う゛ッ! さぶっ……」 「びしょ濡れだな」  抑揚なく言う。そんな景介の体も濡れている。前髪から零れた雫が唇を掠めた。ブレザーは黒く重たい質感に。灰色タータンチェックのズボンは肌に張り付き、長く引き締まった脚のシルエットを(あら)わにしていた。  ――(たま)らない。無様な今を忘れて酔っていく。雨水に侵された淫靡(いんび)な姿に。 「行くぞ。歩いて5分もかからない」  言うなり景介は傘を開いて歩き出した。期待通りではあるものの、状況が状況であるだけに罪悪感も一入(ひとしお)だ。けれど、今更引けない。バッグから傘を取り出す。 「……っ」  ――頼人から借りたものだ。途端に頬が強張る。 「何してんだ。さっさと来い」 「…………」  促されるまま傘を開いた。柄を持つ手に力がこもる。もう戻れない。戒めの言葉を反芻(はんすう)させながら土砂降りの中を歩いていった。  ――景介が言った通り5分もしない内に辿り着いた。10階段建てのマンション。茶を基調とした落ち着いた外装だ。中に入るとひどく静かだった。大理石でつくられたクリーム色の壁、グレーベースの御影石の床は美しくも素っ気ない。  エレベーターに乗り3階へ。降りて直ぐ、右手側の扉の前で止まった。表札らしいものは見受けられないが、ここが彼の家であるらしい。反対側5メートルほど離れたところにも扉がある。このフロアには白渡(しらと)家を含め2戸しかないようだ。プライバシーを重視した都会的な造りに、快適さとほんの少しの息苦しさを覚える。 「おい。今更遠慮なんかすンなよ」  扉を片手で押さえ、待っている。 「あっ!? ごっ、ごめん!」  急ぎ中に入った。薄暗い。人のいる気配はまるでしない。ここにきて改めて実感する。景介の祖母・結子(ゆいこ)の死を。 「少し待っててくれ」  景介の背が手前右のドアの向こうに消える。落ち着いた白のフローリング。目を向けると透明な足跡があった。それを見てほっと息をつく。 「ほら」 「……ありがとう」  薄緑色のタオルを受け取り、髪や顔の水滴を拭っていく。 「シャワーは今、俺が出入りした扉の先だ」 「えっ? 貸してくれるの?」 「風邪引くだろうが」 「そう、だね……」  泊めてくれるのだろうか。いや、流石にそれはないだろう。微苦笑一つに一蹴する。 「濡れた服は洗濯機横の白いかごにでも入れておいてくれ。着替えは後から持って――」 「待って」  再び動き出した背に制止を求めた。立ち止まったが振り返ろうとはしない。もう後戻りは出来ない。意気地のない手に力を込めて問う――。

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