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78.乾いた手

「お疲れ」    穏やかではあるものの疲労の影も伸びている。無理もない。彼は今日古巣の空手部に足を運んだのだ。空手に勤しむ頼人(よりと)をスケッチするために。 「その……大丈夫だった?」  監督の最上(もがみ)は惜しみながらも景介(けいすけ)の選択を受け入れた。お陰で表向きには円満退部ということになっている。けれど、景介が彼の期待を裏切ったという事実に変わりはない。そのため、景介は頼人(よりと)以外の部員達とは極力距離を置くようにしていた。同様に部員達も。  こういった状況下で彼らの聖域たる挌技場で絵を描く。監督・頼人の手前、衝突には至らないまでも何かしら心に傷を負うようなことがあったのではないか。 「別に」 「本当に?」 「ああ。ありがとな」  ほっと胸を撫で下ろす。 「んなことより、お前だよ。お前」 「っ!」  変なことはされなかったか。照磨(しょうま)の家族の印象は。"本当に"変なことはされなかったか。などなど、矢継ぎ早に質問をぶつけられ軽く目が回った。 「じゃあ、行くか」  疲労感によろけながらも彼に続いて歩いていく。 「たぶん、いや……確実にいい絵が描けると思う」  楽しみだ。口にしかけたところで痛感してしまう。  ――その絵の所有権が自分にないことを。  不快感と悲しみが込み上げてくる。手を握り締めると自分の手がひどく乾燥していることに気付いた。物欲しげに景介の手を見る。 「あのさ、洋食屋さんのところを曲がったら……手、繋いでもいいかな?」 「ああ。でも、人が来たら――」 「分かってる。……ありがとう」  救われる。寒空の下で飲む温かなココアのような優しさに。無論、いつまでも甘えてなどいられない。分かっている。分かっているが今だけはと肩の力を抜いていく。  後10メートルほどで洋食屋の通りに出る。景介の温もりがこの手に戻ってくる。それだけを励みに冷たい風が吹きすさぶ中を歩いていった。  ――それから2週間後。ルーカスは撮り終えた写真の編集に取りかかっていた。しかし、一向に完成が見えてこない。手を加えては戻すをひたすらに繰り返している。完全なる悪あがきだ。抗ったところで仕方がないというのに。幼稚な自分が心底嫌になる。 「ルー? 聞いてんのか?」  黒く澄んだ瞳に自分の姿が映り込んでいる。街灯に照らされた制服姿の景介は(まばゆ)く清らかでありながらひどく無防備でもあった。薄桃色の唇に、白くなめらかな首筋に(かぶ)り付きたい衝動に駆られる。 「写真だよ。もう出来たのか?」 「あっ……、いや、えっと……」 「まだなんだな?」 「……ごめん」  返事を聞くなり顔を(うつむ)かせた。落胆。呆れ。その両方か。謝らなければ。言葉を口にしかけたところで(さえぎ)るように返してくる。「俺もだ」と――。

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