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86.染めてなぞる、筆の先
「えっ!? うそっ!? 何で咲いてんの?」
赤く染まるテラス。榊川 を背にしたプランターの上には一輪の菜の花が咲いていた。
種を蒔 いたのは3週間ほど前。本来2~3月頃に咲くはずなのだが。身を屈めて輝きを放つ花に触れる。
「おばあちゃんの家でもこんなことあった? ……ケイ?」
――返事がない。
振り返ると景介 の姿があった。
「けっ、ケイ……? おわっ!?」
首に何かが巻き付く。マフラーのようだ。首に温もりを感じた時には既に歩き出していた。何をするのかと思えば慌ただしくセッティングに取りかかっていく。カメラの三脚を立ててトートバッグから板を出した。中央付近には穴が開いているようだ。
その穴の部分を雲台 ――カメラを固定させる部分に通して脚にかぶせる。板の上に絵の具や筆といった画材を。仕上げとばかりに水彩紙が張られた画板を雲台に固定させた。
「す、すごいね! それ――」
「動くな」
制止をかけられる。凄まじい気迫だ。銃を向けられている。そんな錯覚すら抱いてしまうほどに。
「さっきのポーズ、もう1回」
「え? えっと……」
「早く」
「っ! ……こっ、こうだったっけ?」
再び身を屈めて菜の花に触れる。
「ああそうだ。そのままキープな」
景介の機嫌がほんの少しだが良くなった。けれど、今のルーカスに安堵する余裕などない。頬が赤くなっていく。堪らず話しかけようとしたところでシャッターを切られた。まるで隙がない。諦めて一人羞恥 に耐える。
「頼人 ……マジ尊敬」
「何か言ったか?」
「あっ! ううん! 何でも……」
欲張らず、ポーズを維持させることだけに意識を集中させる。だが、どうにも思うようにならない。そうこうしている間に数分が経過した。
「よし……」
鉛筆を置き、ペンを取り出した。水筆だ。あれがあればバケツは不要になる。軸の部分に水を入れるのだ。押すと水が出てくる仕組みで、筆先を綺麗にすることも水分量を調節することも叶う。非常に便利な道具だ。
「えっ……?」
唐突に軸を外した。水は零れなかった。空 っぽであるようだ。注ぎにいくのだろうか。思いかけた刹那 、軸を板机の上に置いた。
続けて小瓶を手にする。薄い水色の液体が入っているようだ。手慣れた調子で蓋 を開け、液体に筆を浸していく。
あれはマスキングインクだ。あのインクで塗った部分は、スポンジのようなクリーナーで剥 がさない限りは色をのせられない。部分的に明るさを強調する際、葉と葉、髪と髪などの重なりを表現する際などに有効とされている。
「マスキングもするようになったんだね」
「我喜屋 先輩の勧めでな」
「その即席のアトリエも?」
「こっちは先生からだ」
「へえ~……」
これまでの歩みを好き勝手に想像して心を穏やかにする。
「……それでいい」
意図が分からず戸惑う。彼の目線は変わらず手元に向けられたままだ。
「変に気張る必要なんてない。普段通りのお前が一番だ」
たった一言で心を鷲 掴みにされる。熱い。恥ずかしい。苦しい。両足の指に力を込める。こうすれば少しはましか。ほっとしたのも束の間、足音が近付いてくる――。
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