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05.溝
換気のために窓を開けた時には、あえて見ないようにしていた。先ほど目にしたあの絵。あれを受け止めてからでないとここには来れないと思ったからだ。
ブラックの板チョコレートのような床。そこから上がる非難の声に耳を傾けながらテラスの端へ。木製の手すりを背に周囲を見回す。
手すりに沿うようにして置かれた無数のプランター。その上には鬱蒼 とした森が広がっていた。目を背けるようにして振り返ると、榊川 が見えた。3年前とは違い、草や木々の間で『黄』が。菜の花が揺れている。
『写真はもう撮ったでござるか?』
探るような物言いだった。
「うん。でも、見せられるほどのものじゃないよ」
反射的に。しかし、やんわりと断りを入れる。父は何も言わない。慎重に言葉を選んでいるのだろう。
『……悪かったよルーク。もうあんなカッテなマネはしないから』
スマートフォンを持つ手に力がこもり、顔まで強張り始める。ルーカスは、自身をそうさせているマイナスな感情を押し退けるよう、努めて明るい声色で返す。
「むしろ父ちゃんには感謝してるよ。あれでケイにも届いたかもだし。けど……」
傷付けないよう、最善と思われる言葉を選び取っていく。
「けど、もう勘弁してほしいかな。父ちゃんやファンの人達をガッカリさせたくないし」
『そんなわけがーー』
「あ~! いいから! もうこの話はここでおしまいっ!」
父は何か言いたげではあったが、控えてくれたようだ。軽く咳払いをして話題を変えてくれる。
『ケイに会ったら何を話すんだい?』
成長した景介 の姿を想像する。声も顔も何もかもが不明瞭なイメージだが、それでも景介の緊張した様子や、喜びのあまり取り乱す自分の姿は容易に思い浮かんだ。
「……先の話をしたいかな」
『シンユーとして?』
「うん」
『本当にそれでいいのかい?』
諭すように問われ、堪らず微苦笑を浮かべる。父の愛情は春の日差しのようだ。あたたかく、それでいて煩 わしい。
「ケイの傍 にいたいんだ」
理解されなくてもいい。ただ、自分はそうありたいと思っている。ルーカスの静かなる意思を受け止めたのか、父は長い沈黙の後で『そうか』と短く返した。
『こっちでのサツエーが落ち着いたら顔を出すよ。では、またね』
電話を切るなりルーカスは小さく溜息をついた。
――来なくていいのに。
そんなふうに思ってしまった自身を叱りながら――。
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