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56.林檎の夜

 唇は熱いが冷たくもある。しっとりと濡れているからだ。この蜜はどちらのものなのか。ぼんやりとした思考は次第に明瞭(めいりょう)なものに。ルーカスの頬をより鮮やかな赤へと染め上げていく。 「……悪い」  景介(けいすけ)は離れるなり出口に向かって歩き出した。逃げ出すように足早に。 「リビングで寝る。お前はここで寝てくれ」  早口に言い、少々乱暴に扉を開ける。 「ケイ! そ、その! ……ごめん」 「……いや。俺の方こそ」  景介から伝わってくる狂おしいほどの思い。自分も同じ思いであることを伝えたい。いや、伝えなければならないと思った。 「あのさ!! 明日、オレんち来ない……?」 「っ!!?」  景介の背がやたらと大きく跳ねる。居た(たま)れないが、彼の胸の内を思えばと自身を奮い立たせていく。 「オレもケイとしたいんだ。たくさん、その……えっ……エッチなこと――」 「わ、分かったから! (みな)まで言うな」  大きく(せき)払いをする。そんな彼の頬も熟した林檎(りんご)のように赤く染まっていた。絶好のシャッターチャンス。しかし、生憎(あいにく)とカメラはリビングに置いたままだ。何をやっているんだと内心で自身を罵倒(ばとう)する。 「悪い。その……親父のこととか、色々と気を遣わせて」 「そんな――あっ……!」  返事も待たずいってしまった。追うことも考えたが、それは野暮(やぼ)だと踏み(とど)まる。 「ふぅ~……」  布団を手繰り寄せながら静かに思う。 「可愛い……か」  初耳だった。恋心と共に生涯秘めておくつもりだったのだろう。 「可愛い……」  恋情を抱くに至った理由の一つ。かなりのウェイトを占めているのは明白だ。 「ん~~~~……」  口角が下がっていく。この容姿と気弱な性格がそう思わせ、期待させてしまっているのだろうか。今はまだいい。けれど、いずれは応えられなくなる。変わる意思があるからだ。少なくとも性格面においては。景介、一喜(かずき)結子(ゆいこ)一徹(いってつ)を幸せにするという大望を果たすために。  一喜の前で誓いを立てた時、景介は一切反論しなかった。実際のところ快く思っていないのだろうか。あるいは出来るはずがないと高を(くく)っているのだろうか。  いや、違う。拙いながらに差し伸べた前進への(いざな)い。景介はいずれにも応えてくれている。受け入れてくれるはずだ。変わりゆく自分のことも。  自身に何度となく言い聞かせ眠りの深淵を目指していく。胸の底から湧き上がる不安、違和感から逃れるように。  ――翌朝。一喜を含めた三人で朝食を取った後、景介と共に学校に向かった。恋人として踏み出したばかりということもあってかどうにもぎこちない。表向きには親友のままでいなければならないというのに、適切な距離や態度を何一つ思い出せずにいる。まったくもって贅沢(ぜいたく)な悩みだ。 「……何だ?」  (ようや)辿(たど)り着いた教室。しかしその周囲は異様な空気に包まれていた。シャッター音が聞こえてくる。とめどなく。ひたすらに。 「まっ、まさか……」  腹部を擦りながら中を(のぞ)く――。

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