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皐月-1

 部屋に入ってカードキーを差し込むと奥の部屋の照明がつく。明るいほうへと、静かに進む。  テレビの電源が入っていて、いつもの、ウサギのぬいぐるみが、まるで静止画のように映し出されている。  ベッドの周りに、…いつもの、三脚に乗せられたデジタルビデオカメラ…  4台とも、ベッドに向かって設置されている。 『やあ。』  テレビのウサギが喋る。  静止画で無いことは、たまに映る人影で分かる。 …皐月さんなのだ。  おそらく、隣の部屋からの映像。 『久しぶり。調子はどう?』  機械でいじられたような、薄気味の悪い、独特の音声。 「…皐月さん。」 『こんばんは。ショウブくん。』  僕の本名を知ってるくせに、皐月さんはやたらとその偽名で僕を呼ぶ。“皐月”というのも、きっと偽名なんだろう。 『またお話ししたい?それとも、すぐに始める?欲しいんでしょ、おクスリが。』  いつの間にか力んで握っていたこぶしを、一度、かすかに開く。 「お話し、させてください。」  ククッ、と、こもったような笑い声。 『今日はなに?だから、何回も言うけどそのカメラは転送用で、録画はしてないってば。』 「中和剤が、欲しいんです。…クスリ、もう止めたくて。」  皐月さんはだまった。 「…塾の知り合いに、聞いたんです。」 『…ふうん。』  皐月さんは考えているふうだった。 『―…中和剤っていうか、うーん。たぶん君らが言ってるのは、 「欲しいんです!」  ややあって、皐月さんがため息混じりに呟く。 『…お気に入りなんだけどなあ。キミは。』  嫌悪感で首筋がぞくぞくする。  まるで、皐月さんに直接息をかけられたみたいだった。  女みたいな男みたいな、大人みたいな子どもみたいな、変にいじられた皐月さんの声。 「…知って、るんですよね…」  緊張がピークに達しているためか、声が震えてしまう。 『知ってるよ。今日も持ってる。タイプじゃないときにいつでも渡せるよう、常備してるからね。…キミに渡すことになるとはね。』 「…は…」  肩からガクンと力が抜けた。  てっきり知らないふりをされるか、値段交渉の話になるものと身構えていたのだ。  ところが皐月さんは、中和剤を今日ここに持ってきていて、しかも、もう僕にそれをくれる気でいる! 『意外にあっさりしてるから、ビックリした?』 「あ…、は…はい。」 『僕はこう見えて、青少年が健全に更正しようとする意志に対しては肯定的なんだ。…でも、』  ウサギに映った人影がチラリと動く。 『それでもタダであげるわけにはいかないのは、わかってるよね?』  …体が、こわばる。  それは、そうだろう。  わかってはいるけど…。  テレビの横の、化粧台の鏡の前に置かれたガラスケースとパック入りのイチゴ牛乳。皐月さんは、金額のことを言ってるんじゃない。 『今日は、記念すべき最後の日なんだから、服は全部脱いでもらおうかな。』 「えっ…」  また、あの笑い声。 『冗談だよ。…シャツの下に、何か着てる?』 「…。いいえ…」 『じゃあ制服の上のほうだけ、ボタンを全部外してからにして。』  抑揚も無く淡々と言われるが、今までは着たままで良かったから、僕は激しく動揺した。 『服は下の制服から全部出してね。』 「…―は…、…は、い…。」 『女の子じゃないんだから、それくらい平気でしょう?』  笑いながら言っている。 …いやなんだよ。あんたに見られるのは。 ――くそ。指先がかなわない。 (早く終わらせて、中和剤をもらって帰るんだ。) (今日で最後だから。今日で…)  自分に言い聞かせて、なんとかシャツのボタンを全部外した。 (うう!)  半ばヤケクソになって、制服からシャツを引き抜くと、 『大丈夫?ゆっくりね。』  楽しそうな皐月さんの声が部屋に響く。 「…すみません…」  自分の歯がこすれる音が、耳の奥のほうから聞こえた。  カメラは全部ベッドに向いてるのに、僕の動揺する様子が皐月さんには手に取るようにわかるみたいだ。ということは、やっぱり、隠しカメラも、いたるところにあるんだろう… (…今日で、終わるから…)  鏡の前に行き、手のひらにのる程度の小さなガラスケースを左手で押さえる。  右手で上のふたを上げて横に置き、中の、真空状態のビニールに入れられている、緑色で半透明の錠剤を見つめる。  両手でつまんで、上のほうから慎重にビニールを裂く。  やがて、コロン、と、錠剤がガラスケースの中に落ちた。  イチゴ牛乳にストローを突き立てて、目を閉じ、一度、大きく息を吸い、ゆっくり、吐き出す。 (…終わるから…)   錠剤を拾い上げ、口に含む。指先が口びるに当たった瞬間、その震えと冷たさに驚く。  舌で少し転がして、奥歯に挟む。 「…ん。」  噛み締めると錠剤の中の液体が一気に溢れ出る。  やっぱり、相当マズい。苦味と酸味と、ゴムみたいなヒドい匂い。 (絶対、体に毒だ…)  急いでイチゴ牛乳をストローで吸い上げ、口の中の不快感を、のどの奥へと一気に押し込む。 …これがまた、ヒドく甘い。うちの中学校の自販機でも売っているが、甘党の女子しか飲まない。  それでもこの不快感をどうにかしたいので、パックが音をたてるまで、中の液体を飲みきる。 「…はあ…」 …飲んだ。 …あとは、もう…。 『ご苦労さま。じゃあそのままベッドに仰向けに寝てればいいから。両肩、ちゃんとマットにつけてね。』  言われたとおりにベッドの上に、…カメラの前に寝転がる。  目を閉じて、初めてこの薬を飲んだときのことを考える。  驚きと、屈辱と、恐怖。 ――両肩、ちゃんとつけてないとおクスリあげないよ。  ときおり聞こえる、皐月さんの機械的な声。  体をねじることも出来ないまま、僕は… -----------→つづく

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