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ひねもす(6)
白波止灯台は赤波止の灯台にくらべると規模が小さい。
限りなく密漁者の疑いを感じるじいさんが立ち去ってからは誰もいなかった。
灯台の真下に陣取ると、目の前は海と空しか見えなくなる。
海と空の、青のせめぎあいの最前線だ。
沖合から絶えず風が吹いている。
辻はみずから「ポイントをかえよう」と誘っておきながら、アミを海に投げ散らかすばかりで、竿をとろうとはしなかった。
「あぁぁ~。腹が膨れたらなんか眠くなっちまったなあ」
それは竜一もいえる。暖かくぬるい風も眠気を誘う。竜一も竿を置いた。
辻がごろんとひじをついて横になった。オキアミを一匹ずつ、ぽろり、ぽろりと海に投げ入れる。
竜一はもったいないなと思いつつ口には出せなかった。
「お前さぁ、大学行くんだろ」
「え?なんだよ、急に」
「いや、明日見ちゃん金貯めてるみてぇだし、行くのかなぁと思って」
聞きたいのか聞きたくないのか、あえて聞いているのか、辻の表情は病院で「天使」の話題が持ち出されたときと似たよう顔つきだった。
顔には出さないが竜一はこの辻の顔を見るとかわいいと思う。かわいいので、あまり冷たい言い方をしたり嘘はつきたくなかった。
「ま、母ちゃんは、行かせるつもりじゃないかな」
「お前は?」
「俺は……、結構休んだし、こういっちゃなんだけど、やっぱレベルが高いんだよなぁ。ついて行くのがやって感じで」
「へぇ、竜一でそれなのか」
「俺なんか大したことねぇよ……ま、頑張ってはいるんだけど、春休みも講習会で……休み二日しかなかったし」
また竜一と言われてなんとも砂糖菓子が胸の中でとろけていくような気持ちになった。
「やっぱ、俺たちみたいな馬鹿学校とはちがいますなー。そういや、聞いたか、うちの高校なくなるんだってよ」
砂糖菓子は波をかぶって、しゅんと流れ去っていった。
「え、合併して、分校で残るってのは……」
「合併したらうちの学校の名前も残るだろ。俊英高校のエライさんとか、卒業生のエライさんが、それが嫌なんだってよ。馬鹿学校と一緒にされたくねえらしい」
「なんだよそれ、えらく人を馬鹿にした話じゃねぇか」
「お前が怒る話じゃないだろ」
「関係あるよ、アパートのみんなは大概地元なんだし……うちの母ちゃんも卒業生なんだ」
辻は肩をちょいとあげて苦笑した。
「でも、もう決まったんだってよ。本当は今年まで生徒募集するつもりだったらしいけど、全然生徒が集まらねぇんだとよ。新入生は先行で俊英の生徒になったから、実質俺たちが卒業した時点で、学校は閉校」
「そんな……」
「卒業証書もらっても、学校がなくなっちまったらなぁ……あんまり意味ねぇから、仕方がねぇよ」
竜一は自分でも意外なほど腹を立てていた。まるで自分自身が「いらないやつだ」と言われたような気にすらなった。
対して辻はもう諦めきっているのか、もともと学校がどうなろうが知ったことじゃないのか、右肘を腕枕に寝っ転がっていたが急にひょこんと起きて、ずいずいっと竜一との距離をつめると竜一の膝に頭をのっけてしまった。
「ちょっと、なんだよ」
「下がコンクリだから手が痛てぇんだよ」
辻の肉体の重量感と存在感に竜一の頭はショートしそうだった。
辻と一緒にいると予想外のことが起こる。
それが例え失敗でも、怒られるようなことになっても、辻とならば楽しさに異化されてしまう。
昔は、そうだった。
昔のように、強引にことを運んで、さぞや傲慢に笑っているかと思いきや、辻は竜一の存在がちゃんとそこに在るのか確かめるような、不安の入り交じった目つきで膝の上から見つめていた。
自分でもそれがわかって、照れくさかったのか、辻は少し体を丸めて寝返りをうった。
眼をあわせないようにしてから、ぽつりと、だがかみしめるように、言った。
「いいじゃん、死んじまったら、できねえんだからよ」
死にたいと思う人間にも、死にたくないという人間にも死は必ず訪れる。
たとえば今、ころんと海に落ちてしまえば二人とも死んでしまうかもしれない。
辻の一言でようやく自分の命が助かったのだという実感が全身に満たされていった。
そして、辻が竜一が助かったということについて、喜び以上のなにか祈りにも似た何かを持っているのが感じられた。
一番海に近い風が竜一の頭に巣くう靄を吹き飛ばした。
死にたい人間だと思われた腹立たしさも、そう思われたくないという意地も、ふつっと切れて風に流されていった。
ぬるい風に辻の無精ひげがふわりとゆれた。
竜一はその柔らかさを確かめたくなって手の甲で辻の頬に触れた。
辻は目をつぶったまま素知らぬ顔をしていたが、竜一が手の甲を滑らせて指先でひげに触れると、唇の端が徐々ににんまりとあがっていった。
どれほどそうしていたのかわからない。時が止まったように竜一は辻のひげを指に遊ばせながら、辻の顔を見つめていた。辻はいいご機嫌のまま竜一の好きにさせていた。
ざりざりと、連れだった足音が聞こえてきて竜一は辻の頬に触れていた指を慌てて離した。辻は竜一の膝に頭を預けたまま笑顔を消した。
アパートの方から二人、見覚えのある顔が歩いてきていた。竜一たちの一つ後輩の男子たちだ。二人は突堤の途中、炊飯器が打ち捨てられているあたりで立ち止まった。
二人は顔を見合わせて一言二言何か言い交わしてから、ぺこりと竜一に会釈した。
思いがけない好意的な態度に竜一は驚いた。辻の話によるともう地元の高校には後輩は入学しないそうだ。
この二人もどこか知らないが別の町の高校に進学するのだろう。この町の縦の関係から切れるのだ。竜一を避ける意味もあまり無いのかもしれない。
二人は意を決したように辻を呼んだ。
「辻さん、神楽の練習はじまりますよ」
「坂口さんが呼んでますよ」
辻の瞼がぱちりと開いた。その眼は特になんという感情も表れていなかった。鏡のように竜一の顔を映しだしているだけだった。
「今行く」
辻はひょこりと起きあがり、竜一に何の言葉もなく二人の方へ向かっていった。
これで、元通り。
だが竜一の肩が元に戻らないように辻の頬に触れた後では金がなければ人生が始まらないと思っていた竜一には戻れなかった。
「まるで嫁さんと旦那だな」
言いたくもない言葉が皮肉な笑いにゆがんだ唇をついてでた。
辻はちらっと振り返った。それだけで胸が痛むと同時に暗い喜びがわき上がる。
辻はふん、と鼻を鳴らしてにやりと笑った。
「じゃあ、おまえは愛人な」
「おまえらぁ、その皿とか炊飯器とか、片づけて俺んちに運んどけ」
「ええ~?」
辻が後輩たちに命令を下しているのが遠くに聞こえたが、竜一にはもう自分を覆う膜の外の出来事のようだった。
西に傾いた太陽が黄色い光を海にふりまく。ぬるり、ぬるりと波が揺れる。
空が紫色になった頃、竜一はようやくアパートに戻った。
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