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夏の鳥(1)

 汽車の扉が開くと、冷房の効いた車内にむわっと熱気が入ってくる。  七月二十七日、一番暑い時期だ。  扉が閉まり、鋭い笛の音が鳴った。汽車がゆっくりと動き出す。  ホームを出るとレールの継ぎ目の音が次第に早くなってくる。  汽車は緑の谷間を抜けてゆく。  唐突に谷が途切れ、青々とした田んぼが広がった。もうすぐ竜一の降りる駅に着く。  竜一は生物の教科書を閉じた。今のところ、汽車の中では好きな教科の勉強しかしないことにしている。  西日に照らされたホームはところどころ吐き捨てられた痰やガムがこびりつき、陸橋の階段にはそこらじゅうに煙草の吸殻が落ちている。  駅なんてどこもこんなものだと思っていた。  高校に入って他の町の駅を使うようになると、それは違うということが分かった。  降りたのは竜一以外には二人しかいなかった。二人とも大きな荷物を抱えていた。一人は三十代に差し掛かったくらいの女性、もう一人は六十は過ぎているであろう男性だ。二人とも知らない顔だった。  今日この町の住人で町から出ている人間はほとんどいないだろう。  七月二十七日は曜日も何も関係なく、七月二十七日なのだ。  駅員は朝しかいない。定期券をリュックサックのポケットに入れたまま竜一は改札を通った。  駅を出て真っ直ぐ前を見ると、ゆるい下り坂の向こうに国道が横ぎっている。  さらにその先に海が見える。  知らなければあの水平線の下に町があるなどと思わないだろう。  アパートに帰る道は何本かある。  あまり人に会いたくない時は国道沿いを歩き、いきなり崖を下る道をゆく。  誰にも会いたくない時は自転車も通らない畑道を帰る。  竜一はひとまず駅舎を出て軒先にあるベンチに座った。一緒に降りてきた男性はタクシー会社の事務所に向かった。黒塗りのタクシーが車庫から出てきてロータリーを回り国道方面へと走って行った。  女性はキャリーバッグを引いて軒柱の脇にたたずんでいたが、すぐに迎えの車がきて去っていった。  竜一は一人になってもまだ座っていた。  朝、アパートを出るとき、実和子から声をかけられた。  実和子は同じアパートの住人であり、中学まで級友だった女子だ。竜一が二階から階段を降りていると、追いかけてきて踊り場にいる制服姿の竜一に上から声をかけた。 「三上くん、今日も学校?」 「ああ、夏期講習」 「お祭りはどうすんの」 「……行けたらな」  実和子はふふっと意味ありげに笑った。 「今日の神楽ね、辻くんも出るよ」  神楽と聞いてどきりとした。春に心残りになるような別れ方をして以来、辻とは顔をあわせていない。あの時、辻は神楽の練習に呼び出されたのだった。 「私は笛、吹くんだ」  実和子の頬は上気し、竜一に挑むかのように余裕のある笑みを浮かべた。 「よかったら見に来てよ。私の笛で辻くんが舞うんだから」  ふふふ、と笑い声を残して実和子は再び階段を上がっていった。  実和子が何を言いたかったのか、真意のほどはわからない。  辻と竜一の因縁を実和子が知っているのかもわからない。  それを知っていて、実和子は見せつけたいのかもしれない。  自分が辻を舞わせ、操る様を。  辻が舞う姿は見てみたい。しかし、舞わされる姿は想像できなかった。辻は王様だ。  竜一はふらりとベンチから立ち上がった。  何にしても、辻が主導権を譲るはずがない。  どんなに下手くそでも、こなれなくても、辻は必ず主役になる。  春に気まずく別れた後の紫色の空が頭をよぎったが、それと同時に竜一の膝に預けた辻の身体の存在感を思い出していた。  あの身体が舞う。  そう考えると身の内に期待とわけのわからない欲求が渦巻き、ぞくぞくとしてくる。  竜一はまっすぐ国道には出ず、旧道を歩くことにした。

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