11 / 44

夏の鳥(4)

 あれは辻だ。辻に違いない。舞台では次の演目が始まっていたが、竜一の意識は舞台には向かっていなかった。  確かめるのは簡単だ。暗い海に落っこちないように気をつけて、幕の後ろに回ってみればいい。  そこには辻の取り巻きや神楽団の大人たちがいて、賞賛を受けているかもしれないし怒られているかもしれない。何にせよ部外者の竜一が立ち入るには場違いだ。  それに、何の臆面もなく熱意のこもった感想を述べるには辻と別れてからの時間は短すぎた。今の竜一には辻に言葉をかける力さえ残っていなかった。  竜一は舞台右手の脇までは行ったものの、そこから一歩も足が出なかった。  白布の陰に夜目にも鮮やかな赤が揺れ動いていた。  目を凝らすと「ミコ」が夜の海を向いてぼんやりと突っ立っていた。   飾り気のない単純な形の面だけにその表情は計り知れない。  ごつごつとした派手さは無いが異形と言えば異形だろう。横に細長く切った目の穴は黒々として優しくも見え、何を考えているかわからない怖さもある。長い袂が夜風に吹かれてふわふわと揺れる。  竜一ははっと身構えた。面のひもに「ミコ」の手がかかった。確かめたいと思っていたものが今、暴かれようとしている。見たいはずなのに、見たって誰にとがめられるはずもないのに、見てはならぬものを見ているような罪悪感に似たものが喉のあたりでぐっとつまってしまった。  はずされた面の下は果たして、辻であった。  辻は神楽の楽も発電機の規則正しい機械音も気ににせず、ライトの光に照らされてきらきらと輝く夜の海をじっと見つめていた。  舞台上での激しい高揚感はすっかり失われ、あの少し目線を下に向けた、よるべない表情になっていた。  竜一は思わず後ずさりした。今、辻に声をかけてはいけない。このまま立ち去った方がいい。そんな気がしたからだ。  竜一のスニーカーが草むらをふみつけるとかさりと小さな音がした。 「竜一?」  玉の汗が光る顔で辻が振り向いた。  辻は自分の予想が当たったのを知ると満面の笑みを浮かべた。   春の出来事など全く覚えていないような、憎たらしいほどの屈託のない笑顔だった。  その笑顔を見ているだけで春からずっと抱えていたわだかまりがとろけてゆく。  それがまた甘い痛みを伴った屈辱感を生み出していった。 「ああ、うん」  辻は波止からまっすぐつながる崖の上の神社の方を指さした。 「先に行っててくれ」  辻が指さしたのは神社の本殿ではない。参道にある鳥居の下のことだ。子どもの頃から待ち合わせにはよく使っていた。  竜一は大きくうなずいた。  言わなくてもわかる。  犬には悪いが、こんなの犬の喜びだ。  犬がうらやましい。彼らは喜びを感じこそしても悔しいとは思わないだろう。  竜一は人間に生まれたことを後悔するほど、嬉々として人波をかきわけて鳥居の元に向かった。  これから花火を見に行こうとする観衆の流れに逆らい、赤く光る街道を横切って神社までの石段を登った。  石段はくねくねと曲がりくねっていて脇には小さな家が折り重なるようにびっしりと並んでいる。どの家にも赤々と提灯が灯っている。本殿までは途中に何本か石で作った鳥居が立っている。崖の中腹にある三本目の鳥居の下で竜一は辻を待った。  崖の中腹からみる町は細長く赤く輝いていた。一つ一つの提灯の灯りは小さなものだが、長く長く連なると光の川の流れのように見える。御旅所の作られた波止は全体がきんきらきんの黄金色に光っているようだった。その対岸の波止から花火があがる予定だ。  崖の上や中腹は花火を見るのによさそうだが、家の屋根や崖の向きや生えている木の角度によって花火がよく見えるところは少ない。 本殿はやや奥まったところにあるので花火の発する光がちらりと見える程度しか見えない。こんなことは地元のものなら知っているので、大抵波止まで直接行って、火の粉が落ちてくるような距離で花火を楽しむ。また、海に窓やベランダが開けた家の者は親戚友人を集めて家で宴会をしながら花火を見るのが常だ。  陸の明るさに比べ、少し離れてみる海は真っ暗だった。  竜一の感度は坂を下ってきたから、開きっぱなしだった。どれをみても美しく、活気があって楽しく見える。漆黒の海さえも安らぎに満ちた麗しい場所に思えた。  この美しい場所で、魂を鷲掴みにするような舞を見た。  それを「奇跡」などという陳腐な言葉で片づけたくはない。  運命なんてとてもじゃないが信用に値しない。  これは辻の行動の結果なのだ。辻の舞の美しさが開ききった竜一の中に飛び込んできて圧倒しているのだ。  竜一はこのまま辻がこないまま夜が明けるまでここに立っていてもいいと思っていた。  それが竜一なりの辻への賞賛と――完全なる決別になるような気がしていた。

ともだちにシェアしよう!