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夏の鳥(5)
足下に聞こえる祭のざわめきの中から石段を登る軽い足音が聞こえてきた。
Tシャツと膝丈のジャージに着替えた辻が疲れた様子も見せず小走りに駆けてくる。
首には町の名前が入った手ぬぐいをひっかけていた。
待たせて悪いとも何とも言わず、辻は竜一の肩をぽんとたたいて鳥居の脇を指さした。
「向こうに行って、花火見ようぜ」
この鳥居の横からは獣道のような小道が崖の中腹にのびている。
誰が手入れをしているというわけでもない。人が通ることでようやく道の体をなしているというだけの崖の途中のひっかかりにすぎない。下からの街灯りと上にある神社から漏れる光にぼんやりと草影が落ち、両脇から盛んに虫の声がする。崖との境界線は曖昧な丸みを帯びていて、つるんと落ちてしまってもおかしくないような道だ。
そこを辻は先になって歩いていった。
竜一は辻の背中だけを見てついていった。白いTシャツが汗を吸って肌に少しはりついていた。
筋肉と骨、肌の下の血流と立ち上る体温がなめらかに力強く連動している。あの見事な躍動を見せた肉体の輝きが透けて見える。
辻は一段と大人の身体を手に入れつつあるようだった。
道の先は猫の額ほどの空き地があった。そこは子どもたちのちょっとした秘密基地だった。今でも出入りしている子どもたちが踏みつけるのか、入り込むのに躊躇するほどの草は生えておらず、ところどころ白い地面がむき出しになっていた。
二人は海の方を向いて地べたに足を投げ出して座った。
「今日も学校だったのか」
辻は実和子と同じく竜一の制服にリュックを背負っている姿を認めたらしい。
「うん、講習があって」
なんだか学校に行って勉強しているのが悪い事をしているような気がして、リュックをおろしながら竜一は小さく答えた。
「俺は学校出たら、屋台するかも」
辻の唐突な言葉に竜一は追いついていけなかった。
「屋台?」
「塩崎さんが、誘ってくれたんだ」
「……塩崎さんって、どっかいったんだろ」
竜一と辻より四つ五つほど年上の先輩だ。一緒だったのは小学校までだったのでそんなにはっきりとはおぼえていないが、以前は辻と同じ学校に通っていたはずだ。そこもちゃんと卒業したのかどうかもわからないままいつの間にか姿が見えなくなった。
「香具師になって、今戻ってる。俺は向いてるってよ」
「向いてるって、何が」
こんな暴君のどこが向いているというのだろう。
「名前がいいって。ツジワタルなんて町から町を渡り歩く奴には丁度いいってよ」
竜一はちょっといらついた。町から町に、なんていうがアパートの部屋にいつまで住めるのかわからない暮らしを送っている竜一には呑気すぎるように感じる。
しかし辻の言うことに反論できるほど香具師がどういう仕事で普段の暮らしぶりがどんなものか何も竜一は知らない。
「……ワタルは渡り歩くの渡るじゃなくて、済だろ。済は救済の済だって、佐々木のばあさんが人を救う人間になるって言ったから……」
自然、論点のずれた咎めるような口調になってしまったが、辻はきょとんとして竜一の顔をまじまじと見つめた。
「よくおぼえてたな」
何故か顔に血が上ってくるのを感じて、竜一は早口にまくしたてた。
「昔、保育園の時とか言ってただろ。大体この辺の子どもは佐々木のばあさんが名付け親なんだ。由来なんかみんな知ってる」
辻はにやっと笑って竜一の鼻先に一本指を立てて鼻の先をつんとはじいた。
「そういや俺もおぼえてるぜ。佐々木のばあさんが言うにはお前は親より出世する。町一番の竜になる。だから竜一だって」
竜一は思わず手を振った。
「やめてくれ。親より出世なんて……こんな寂れていく一方の町で。馬鹿みてぇだろ」
辻は返事をしなかった。沈黙に耐えきれなくなって、竜一はおそるおそる辻の顔色をうかがった。下からの薄明かりがかすかに、だがその表情ははっきりと辻の横顔を浮かびあがらせた。辻はあのミコの面のように得体の知れぬ顔つきで暗い海の先を見つめていた。
「俺だって、この町から出てぇよ」
辻には深い考えがあるようには思えなかった。そして同時にそういう考えに至る気持ちもわかる。
自分だってそんなに深く考えている訳じゃない。他にできることもないから勉強して大学に行き、この町を出る。そこから先は何も考えていない。
「だからって……」
再び二人とも黙り込む。風に乗ってかすかに囃子の音が届いた。辻は竜一の方に向き直って苦笑した。
「ま、俺は『人を救う』なんていう大それた柄じゃねぇからよ」
竜一は正面から辻の肩をつかんだ。竜一に辻を止めることはできない。行くなとは言えない。自分もいずれ行ってしまうのだから。でも、今ここで言わなければ後悔しそうなことは心からあふれそうなほどたくさんあった。
「そんなことねぇよ。……さっきの神楽すごかった。なんか……感動した。救われたっていえば、救われた」
辻はぽかんと口を開けて竜一の顔にぐぐっと迫ってきた。
「本気で言ってんのか?」
「うん。きれいだった」
あの回転、あの跳躍を思い出すと、うっすら目に涙がにじむ。
「きれいって、お前。やっぱ頭打ったんじゃねーの」
「かもな。と、とにかく、済は渡り歩くの渡じゃない。救済の済だ。それだけは……覚えていてくれ」
言いたいことの半分も言えていない。もどかしさに言葉がとぎれると、その間隙を突くようにドンと夜空に花が咲いた。
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