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野分(3)

 ひやりとした空気に竜一は目を覚ました。十月の台風は熱気をもたらし、秋の冷気だけを残して去っていった。  まだめまいが治まらない。竜一は重たい身体をひきずって窓と雨戸をあけた。朝の空気は清水のように竜一の身体を冷やし、清めた。  ちぎれた雲の中に鮮やかに輝く青が見えるが、波はまだまだ高い。港には人影が多かった。朝の港に人がいるのは当たり前なのだが、なんとなく様子がおかしい。台風のあとに限らず朝はいつだって忙しい。それが今日は漁師たちでさえ立ち止まって話をしている。 「ちょっと、なんだいこれ」  母親の声に促されて居間に向かったが、違和感が心に残った。  今日は学校に行くつもりはないが定時に家を出る。波をかぶった学生服をそのまま乾かしたら塩がふいていたのでジャージにリュックと遠足のような格好になった。学生服でぶらぶらするよりは都合がいいが、母親からクリーニング代について文句を言われたので、財布をそのまま渡してきたのには困っている。  すってんてんの状態でどこで時間をつぶそうか、考えながら雨に湿った外階段を下っていると、一階の一番下の段に誰かがしゃがんでいた。 「実和子?」  振り向いた実和子の瞼は赤く腫れ上がっていた。ずいぶん長い間泣き続けていたようだった。 「三上くん、聞いた?辻くんが……」  辻の名が出ただけで胸騒ぎがした。夜の救急車の音と大人たちの立ち話と実和子の涙が、電流のようにつながって不吉な予感をかき立てた。 「いいや、何も……」  実和子は腕で顔を覆いながら、ぽつりぽつりとしゃべりはじめた。 「台風がくるから、舞台がとばされるかもしれないって、男子たちが、隣の公民館に泊まることになって、何があったんだか全然わからないんだけど……、坂口くんが、辻くんを、……刺したんだって……」  予感は瞬間的に訪れたのに、実和子の言っていることがなかなか頭に入ってこなかった。実和子は無反応な竜一をちらりと見やり、うなずいた。理解できないのはわかる、そう言いたいのは十分伝わった。 「辻は……無事なのか?」 「救急車にのせられていったけど、後は知らない。坂口くんは……警察」  めまいがぶり返す。じわり、じわりと喉をしめつけるようなねっとりとした衝撃が竜一に襲いかかった。竜一は膝を折り、実和子の横に座った。  取り留めのない断片的な記憶が意味もなく浮かんでは脳内をぐちゃぐちゃにかき回す竜巻に吸い込まれていく。重くいびつな感情だけが凝り固まって、竜一の口から飛び出した。 「殺してやる」  言葉の後から疑問が追いかけてきた。  誰を殺したいんだ? 「やめて」  間髪入れず、実和子は否定した。  腫れたまぶたの奥に光が宿った。 「三上くんまでそんなことしたら、本当に神楽ができなくなるよ。辻くんが帰ってくるところが、なくなっちゃう」  竜一は息を飲んだ。ぷつりと胸に針が刺さったようだった。  何になれるのかもわからず、何をしたいのかもわからず、なりたくないものになりかけている。  どうあがいてもあの父親の息子で、この町の男であることからは逃れられないのか。  張りつめていたものが針穴から抜けていく。 「ごめん」  実和子はまた下を向いた。  言葉は口から出た瞬間に飛び去っていく。記憶して、意味を与えるのはその言葉を聞いていた人間だけだ。  竜一の放った怪物は実和子によって異化され、異化されたものが竜一に残った。  しかし一度出た言葉は取り消すことはできない。聞いていたのは実和子だけでも、実和子は許してくれても、この言葉は一生、竜一について回るだろう。そして言葉の後から現れた疑問も。  竜一はそっと実和子の肩を抱いた。 「俺には、……何も、できないのかな」  実和子は竜一の腕の中でじっとしていたが、ふと竜一の目を見てため息をつくようにつぶやいた。 「何も、できないと思うよ」  二人は小さくまとまって黙り込んだ。  海鳴りが遠くに聞こえる。その低音の上で遊ぶように岸壁に打ち付ける大波の音がした。  実和子と竜一の無力をあざ笑うかのようだった。  人の営みなど知らぬ顔で秋の冷気は日毎に深まっていくだろう。  やがてまた冬が来る。  抗う力の無いものは、下を向いてその季節をやりすごすしかない。  何度も何度も繰り返し、これからも繰り返して行くのならば―― 「待ってることぐらいは、できるかな」  竜一の言葉に実和子は苦しそうに笑顔を作った。 「そうだね」  深くうなずいて竜一は立ち上がった。 「学校、行く?」 「うん。いってくる」  どこにも行くところが無いのなら行くしかない。 「じゃあね」  見送る実和子の顔に、とりあえずは涙は見えなかった。

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