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愛人と本妻(1)

 十二月を前に降った雪はアスファルトの上に水たまりを残してすぐに消えた。  海から吹き付ける風が潮騒を乗せて水たまりの上っ面に魚の鱗のような細かな波を立てる。  駅を出た竜一が国道を渡る交差点までやってくると、カートを引いた年輩の女性とそのまた母親くらいの杖をついたおばあさんが坂をえっちらおっちら登ってきていた。  歩行者用信号が青になり車の流れが止まる。竜一は占いでも立てるような気持ちで横断歩道を渡った。 「ああしんどいわ」 「あんた、若いのに運動不足だねぇ」  耳に入ってきたのはこれだけだ。  事件直後、町は噂であふれかえった。  酒が入っていた、いなかった。辻は寝込みをおそわれた、いや二人きりで話をしていた。二人とも裸だった、パンツははいてた。理由は女だ、金だ。辻のせいで存在感のなくなってしまった同じ高校の先輩連中が坂口を抱き込んでやらせたのだ。いやいや本当の黒幕は俊英側だ――。  流れるのはどうでもいい雑音ばかりだった。  話をしている人たちは真剣に話をしているつもりなのだろうが、嘘も本当も面白おかしさの中にとけ込んでしまって時が経てば経つほど真偽のほどはわからなくなっていった。  錯綜した中にも何か手がかりはないかと、竜一は軒先やアパートの入り口で立ち話をする人たちの言葉に耳を傾け続けたが、辻の消息は全くわからなかった。  二人と同じ学校に通っている実和子も本当に知りたいことはわからないらしい。何度か顔を合わせたが、次第にただ首を横に振るだけになっていった。  坂口の家族は息を潜めるように引きこもっている。  辻の家族も見かけることはなかった。  葬式が出ないのだから生きているだろう。  それくらいしか見当がつかなかった。  坂を下りきると海に出る。  竜一が進路を東にとると西日に切り抜かれた影が濡れた道路の上に落ちた。  土曜日は日のあるうちに帰ることができる。  海が見たい。空と海を厳然と隔てる水平線は竜一の中で揺れ続ける波を一時でも鎮めてくれるだろう。  海の見える防波堤沿いの道を行く誘惑にかられる。  橋の上からちらっと見える海は濃く青く、白い波頭が心地よいリズムを作っていた。  だが、今はまだかすかに人の声に望みを持っている。秋が遠ざかるにつれてくだらない与太話さえなくなってきていたが、それでも竜一は左右に家並みの並ぶ表通りを選んだ。  天気の良い土曜の夕方は人気の多いものだが、今日はさほどでもない。町を通り抜ける間に出会ったのは習字の道具を持った男の子一人だけだった。  表通りからはずれて漁港の中を通る道を行く。魚市場に人影はなく、コンクリートの薄暗い空間には潮と魚のにおいだけが残っていた。  漁港のどんつきにアパートの入り口が見えてきた。事件の後は毎日誰かしら人がいて噂話に花を咲かせていたがもう誰もいない。今日も何も収穫はないまま日は暮れる。  アパートが近づくほどに竜一の歩みは遅くなっていった。  立ち止まり、振り返る。夕日が空を照らし、雲を橙色に染めていた。  港の中の船たちは揺れもせず浮かんでいる。  孤独があまり苦ではないように、待つこと自体はさほど辛くはない。  ただこうやって立ち止まっている間にも待つことを許されている時間は過ぎてゆく。

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