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愛人と本妻(2)
固まった風景の中に動くものの気配がした。
アパートの脇を通り抜け、山手から海の方へ大きな白い猫が歩いてくる。猫は竜一など鼻にもかけないという風に悠然と歩を進めていく。
と、一瞬顔をあげたと思うと急にいそいそと小走りに駆けだした。
竜一もつられて猫の行く方を見た。
すると白やら黒やら茶色やら、四方八方から猫たちが集まってきていた。猫たちの目指す先には作業着の上にジャンパーを羽織った漁師らしき男がいた。小脇に発泡スチロールの箱を抱えてがぼんがぼんと長靴を鳴らしながら歩いてくる。
漁師は漁港のはずれの白波止の入り口あたりまで来ると集まった猫たちに箱の中の小魚を放り始めた。
市場にも出せない、自家用にするにも始末が面倒な小さな魚を分けてやっているのだろう。大体港町では猫は大切にされる。特に珍しくもないが心和むものはある。
漁師はあぶれた猫がいないよう、取り合いにならないよう、見守りながら魚を与えているようだった。
それでいて、青いタオルのはちまきを目深に巻いた様子や、丸めた背中はどこか思い悩む風があった。
「ああ……」
竜一は思わず声を上げた。辻の父親だ。
竜一の声に辻の父も気づいた。視線を感じた竜一はまごつきながらも頭を下げた。
「ちわ」
辻の父はかなり戸惑っていた。
記憶の中の辻の父はそんなに威勢の悪い男ではなかったが、竜一の声かけにも居心地悪そうに無言で会釈するだけだった。
辻の消息を聞いてみようか。
聞いてもいいものか。
辻の両親は竜一の親よりも一回りほど年上で、子どもの目から見ても自分の親より年嵩には見えていたが、今目の前にいる辻の父は年相応以上に老けていた。
逡巡している間に猫はぺろりと魚を平らげて礼も言わずに各々散っていった。
「あ、あの……」
辻の父親は箱を抱えなおし、まっすぐに竜一に近づいてきた。
「怪我は、治ったか?」
一年前アパートから落ちたときの怪我だと思い至るまで少しかかった。無理をしすぎたり、極端に寒い日は疼くこともあったが日常生活に支障はなくなっている。
「はい。治りました」
目元に笑い皺が浮かんだ。
「そりゃあ、よかったなぁ」
少し照れくさそうな笑いは辻と似たところがあった。
「あんた……、退院してから何日くらいで学校に行った?」
「ええと、週末に退院して、月曜には登校してたと思いますけど……」
大騒ぎもしたしされたのに一年も経つと記憶は曖昧なものだ。
竜一の話に辻の父は軽くため息をつき一人ごちた。
「そんなもんだよなぁ……」
急に鼓動が速まっていく。待っていたのはこの瞬間だ。
「それって、ワタル……くんの話と関係してますか?」
辻の父は「イ」と口を横に開いてあからさまにしまったという顔つきになった。困り果てて頭を掻き、しまいにはタオルをはずしてしまった。
「向こうで話そう」
親指で白波止を指すと竜一に先立って歩き出した。
上下二段に分かれた白波止の、上段に登る階段に二人は座った。
辻の父はもう躊躇しなかった。
「実はよ、ワタルのやつ家に帰ってるんだ」
「え……でも、全然そんな話……」
「ずっと閉じこもってるからなぁ。一週間くらい前に退院して、もう学校にも行っていいって言われてんだが、なんのかんの言って行きやがらねぇ。まぁあんなことがあった後だし、しょうがねぇと思ってたんだが……。このまま行かなくなっちまいそうな気がしてよ」
日は傾き真横から最後の光を投げかける。苦笑いを浮かべる横顔が陰に沈む。
「やっぱり、末っ子は甘やかしちまうもんかね」
自嘲気味につぶやいて、辻の父は思いだしたように竜一の顔を見た。
そして自分がかなり気弱になっていることに気づいたようだった。
「すまねぇ。子どもと同い年の子に愚痴言うなんてよ。忘れてくれ」
「甘やかすとか、関係ないっすよ」
人が甘やかそうが厳しくしようが、辻済はああいう男だ。
「……そう、かねぇ……」
「そうっすよ」
大人相手に落ち着いた口振りを装っていたが、鼓動はますます速くなるばかりだった。
スタートはすでに切られ、助走はトップスピードに乗った。あとは跳ぶだけだ。
「済に会いたいです」
辻の父親から微笑みが消えた。
「……会ったら、驚くかもしれねぇよ」
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