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愛人と本妻(4)

 月曜日の朝、竜一は薄暗い玄関で靴ひもを結んでいた。七時過ぎの汽車に乗るために三十分ほど歩かねばならない。鉄の扉をそっとあけるがどこか錆びついたところがあるのかどうしてもキィと音が鳴る。  二日前の夕方、この廊下を辻につきそわれて竜一は家に戻った。部屋で泣き疲れた竜一を送り届けるために辻は一週間ぶりに外に出たのだった。あの時のことを思い出すと顔が熱くなる。  半べそをかいた竜一の顔を見て辻の両親はぎょっとしていた。  さらに閉じこもっていた息子が急に外に出るというので驚くやら嬉しいやら心配やら、二人であわあわと言い合っていた。  あまり騒がれても困るので会釈だけしてそっと出て行こうとすると、辻の母親は玄関まで追いかけてきて竜一の手をぎゅっと握った。 「ありがとうね」  その様子を辻は苦々しげに見ていた。  礼を言われても辻と何か約束をしたわけではない。両親の願い通り学校に行くようになるのかは辻次第だし、それが許されるのかもわからない。辻は竜一が家に入るまで微笑みながら見送ってくれたが、再会を感じさせる言葉は無かった。  それでもなにかが変わった。アパートから跳んだときほど瞬間的で強烈なものではない。祭の夜の酔うような濃密さもない。  世界を美しいと思わせてくれるものの微粒子が竜一の周りを常に漂い、身体をほんの数ミリ浮かび上がらせている。  二階の通路から見る町はまだ薄暗い。日の出前の空気は冷え切っていた。今日も晴天に違いない。 「よう」  竜一が階段を下ろうとすると三階から辻が当たり前のように降りてきた。学生服を着て前髪をあげ、申し訳程度の薄っぺらい鞄を手にしていた。  階段の手すり越しに曙光が差し込む。微粒子は辻をも取り巻き、光り輝かせていた。  顔の傷の痛々しさはかわらずひどいものだったし、少し喋りにくそうなのもそのままだったが、辻は傷をそこにあるものとして受け入れ、ねじ伏せた。堂々とさらされた傷は辻に牙をむくことなく足下に従っている。人を見下すような態度はそのままに、人を包み込むような柔らかさを身につけた辻にはもう卑屈さの付け入る隙はないだろう。 「途中まで一緒に行こうぜ」  辻が呼びかけるまで、竜一は見とれて返事もできなかった。  晴天の続く港は朝から活気にあふれていた。二人は忙しく働く人たちを横目に見守りながら歩いた。 「今から学校行ったら早すぎないか」 「なんとでもなるさ。普通通りの時間に行ったらやいのやいの言われるに決まってんだ。格技場にでも行って」  辻はアスファルトの上でくるりと回ってみせた。 「自主練だ」 「信じらんねぇ。お前の真面目」 「俺は好きなことには真面目なんだ」  辻は鞄を放り出し、竜一の手をとった。くるりくるり、辻の作り出す回転に竜一も気持ちよく乗って二人は誰もいない道路に円を描いた。  自然と笑いがこみ上げる。何事かと家から顔を出す人が現れないのがおかしいくらい、白い息を吐きながら、けらけら、げたげた、笑い、回る。 「ていうか、開いてるのかよ」 「だから、なんとでもなるんだよ」  辻が言うなら、なんとかできるんだろう。

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