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愛人と本妻(8)

 目の前で辻がふうわりと跳んでいた。  Tシャツにジャージのラフな格好なのに、たなびく薄衣が見えるようだった。  着地と同時にくるりくるりと回転する。  夏よりも体の軸が細く締まり、回転速度はあがっているのに全体的に余裕を感じる。  練習だから面はつけていない。しかし辻は“ミコ”だった。  軽やかに、おおらかに、空に遊ぶようにミコが舞う。  歓声はため息にかわった。  竜一は一瞬すべてを忘れて“ミコ”と一緒に空を飛んでいたが、横にいるはずの巨体が見えなくなっているのに気づいて我に返った。  梅原は竜一の足下にひざをついていた。  怒ったように赤い顔をして、困ったように悲しそうな目をして、のどの奥から低いうなり声をあげて辻をにらみつけている。  鬼よりもよっぽど鬼らしい。事実、鬼役の大人たち――もちろん彼らも今日は素面だ――も梅原の出現に鬼が出たように身構えていた。  鬼の周りをミコが回り続ける。楽がぐんと盛り上がり、激しい鈴の音が響きわたる。  観衆がぐっと息をのむ。辻の唇の端がきゅっとあがったのを竜一は見逃さなかった。  つけていないミコの面がはずれて、辻の素顔が現れた。  さらに回転が速まる。楽の音を置いてけぼりにして身体がばらばらになってしまうような速度で、高く、荒々しく跳ぶ。  これは神楽ではない。喧嘩だ。  ドン、と辻が梅原の前に着地して、鈴を鼻先に突き付けた。 「やめろやめろ!ワタル!走りすぎだ馬鹿!」  団長の怒声に辻はニヤリと笑って応えた。 「すんません。トモダチが来てたもんでね。ちょっと張り切りすぎちまいました」  辻は口元を笑みで固めたまま鋭い目つきで梅原を射抜き、突き付けていた鈴を下げながらゆっくりとしゃがんだ。  鈴が大きくしゃらんと鳴った。同時に辻は低い声でささやいた。 「坂口はいねぇ。さっさと帰れ。就職なくなるぜ」  梅原はぎりぎりと歯噛みをし、膝の上に置いた手を震わせた。今にも殴りかかりそうな様子に竜一はひやっとした。梅原を引っ張り込んだ張本人としてはどうにかしなければ。  梅原はいきなり立ち上がった。竜一は梅原の腕を取ろうとしたが簡単に振り払われ、てんで話にならない。  梅原はそのまま突っ立っていた。そして鬼が牙をむくように口を開いた。何か言い出すのかとその場にいた全員が固唾をのんで待っていたが、その視線に気づいたらしく、ますます顔を赤くして、しまいには何も言わずに後ろを向いた。 「夏に来るときは賽銭持ってこいよ!」  辻の投げかけた言葉にどっと笑い声が起きた。  竜一も小さく笑いながらも、ちょっと梅原に気の毒なことをしたようにも思った。梅原はへたりこんでいる田中に一言二言何か言って境内を立ち去った。  神楽の練習はそれからも続いたが、竜一と真島は田中のそばに駆け寄った。 「おい、大丈夫か」 「つ、辻さんは」 「まだ練習してるよ」 「俺、裏切ってねぇっす」  田中は竜一にしがみついて訴えた。 「俺はいくら、梅原が怖くったって、辻さんのこと売ったりしてねぇっすっ!」 「わかってるよ。お前は変な芝居ができるような奴じゃない。そうじゃなかったら、あんな楽しそうに一緒になって登校できねぇもんな」  竜一はしゃがんで田中の背中をさすってやった。  田中は梅原よりも今自分が通っている学校での人間関係よりも、辻を裏切ったと思われるのを一番恐れているようだった。 「俺だって、辻さんの後輩になりたかったんすよ……同じ高校行きたかったんすよぉ」  これもまた、夢の一つだったのだ。世間はくだらないと言うだろうが。きっと朝だけでも辻と同じ高校に通っている気分になって、嬉しかったのだろう。 「学校で、神楽の練習は見たのか?」  田中の気分が落ち着くように、背中をさすり続けながら竜一は聞いた。 「……本当は、俺たちは入っちゃだめなんだろうけど、見ました。祭りの時とも、練習場で練習してる時とも違って、なんか、すげぇ一生懸命って感じで、なんか、なんか……よくわかんねぇすけど、どれもかっこよくて……すげぇ、かっこよかったです」 「うらやましいよ、俺はその時間は汽車に乗ってるからな」 「俺たちは、三十分くらいは見れますよ」  俊英は竜一の通う高校とは逆方面に汽車で十五分程だ。田中はちょっと得意げだった。

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