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愛人と本妻(9)

 真島が手水舎の水を柄杓に汲んで持ってきた。田中は水を飲んで落ち着きを取り戻したようだった。  真島はもう一杯水を汲むために鳥居の外まで戻り、竜一は田中を立たせて神社の本殿の階段に一緒に座った。 「じゃあ、今日は無理矢理引っ張ってこられたのか」  梅原としては自分の後輩で、辻の仲間である田中は使いやすいのかもしれないが、田中にとっては災難だ。 「はい……、辻さんが復活したってウワサが、いっぱい出てて、梅原に案内しろって言われて。梅原は、あれから……あ、夏祭りの時の話、聞きました?」 「ああ、さっき真島から聞いた。……梅原が海に落ちて、辻が助けたんだろ」  緊急の事態が終わってみると、坂口の名前だけがどす黒く胸に残っていた。まるで呪いがかかったかのように、その名を口にするだけで禍々しいことが起こりそうな気がする。  馬鹿馬鹿しいとは、言い切れなかった。  真島がもう一杯柄杓を手にやってきた。柄杓を受け取った田中は一口水を飲んでから再び話しはじめようとした。  最初から聞こうと思って聞いた話ではない。坂口の名前は聞きたくなかったが、田中が一生懸命説明しようとするのを竜一は止められなかった。止める理由も上手く伝えられそうものない。 「梅原は、泳げなくて、俊英と工業の連中の前で、えっとなんて言うんだっけ。青っぱな……じゃなくて緑?」 「赤っ恥だろ。なんで色の方に引っ張られるんだよ」  空の柄杓を受け取りながら真島が訂正していく。田中の話だけだと夜が明けそうなので、途中から真島が話を引き継いだ。 「まぁ、夜の海に落ちたらカナヅチもくそもないですけどね」  梅原が海に落とされて、辻はすぐにそこら辺に落ちていた浮きや、発泡スチロールの箱を海に投げ込み、そこにいた全員に同じように浮きになりそうな物をどんどん海に投げ込むように命じた。 「港の中なんて、池みたいなもんだと思ってましたけど、何も見えないんですよ。水ん中でもがいてるはずなのに、音だって聞こえない。それが灯台の光の加減なんですかねぇ……一瞬、真っ暗な波間に、白いスチロールにしがみついてる梅原が見えたんです」  辻は係留されていた船に飛び移って船内にあった二本のロープと浮き輪を持ち出し、浮き輪のついたロープを俊英と工業の連中に持たせた。自分の手勢に持たせたロープは辻自身の体に結びつける。  浮き輪を持って岸壁の端に立ち、辻は大きく叫んだ。 『警察に通報しろ』  そして最後に 『梅原を突き落としたのは、俺だ。辻済だ!間違えるんじゃねぇぞ!』  そういい残して辻は海に飛び込んだ。 「そうは言っても、梅原と辻さんは対面していて、坂口さんが横からタックルをしかけたのはみんな見てるんですよ。それでも、辻さんは自分がやったと言い張ったんです」  幸い辻はすぐに梅原の浮かんでいるところに泳ぎ着いた。  助けられた梅原は特に怪我もなく、服を濡らしたまま大きな背中を丸めて面目なさそうに去っていった。 「警察なんて呼んでる暇も無かったっすよ」  真島が苦笑いを浮かべながらも、誇らしげに辻の“英雄譚”を語りきった。その横で不満げに田中が唇をとがらせる。 「俺は、辻さんの言うとおりにしようとしたぜ!でも坂口さんにぶっとばされて……あ、辻さん」  気がつくと境内は薄暗くなっていて、ぽつん、ぽつんと外灯に灯がともり始めていた。  本殿から練習場の正面は見えないが、人だかりはもう無くなっているようだった。残っているのは後かたづけをしている神楽団の団員だけだ。それも三々五々、帰り始めている。その中から練習が終わった辻が灰色のジャージを羽織ってぶらりぶらりと一人歩いてきた。真島の饒舌ぶりを途中から聞いていたのか顔をしかめている。 「夏の話は、もういい。多分、梅原も俺のこれ」  辻は指先で傷跡をすっとなぞった。 「……が気になったから見に来ただけだろ」 「いやそれが、梅原がこれだけは言っとけって……」  梅原が境内から立ち去る時に田中に何か言っていたが、どうも辻への伝言らしい。田中が階段から立ち上がって言いかけるのを辻は制止した。 「俺宛だったら、俺一人でいい」  親指をくいっと振って辻は田中だけを呼んだ。二人は銀杏の大木の陰に隠れてしまった。  辻は、この件について竜一に聞かれたくないようだった。

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