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愛人と本妻(10)

 辻が嫌がるなら知らない方がよかったのかもしれない。しかしあの時、辻が竜一を置いていかなかったら、竜一もその現場にいたはずだ。  辻が来いと言えば、しっぽを振ってついて行っただろう。セックスを邪魔されたことも忘れて。  ぞくりと悪寒が走った。  むしろ、それよりも深い快感がそこにある。  常に竜一が坂口に引け目――今となってはそう思う――を感じてきたのは、坂口がその快感を知っているように見えたからではないか。  真島が心配そうに竜一の顔をのぞき込んだ。 「なんか、顔色悪いですけど、大丈夫っすか?」 「……そうか?」 「本当に、大丈夫ですか?真っ青ですよ」 「うん……風邪でも引いたかな」 「寒いっすもんね」  真島のおかげで竜一は内心の動揺を押し殺して座っていられた。  辻と田中が本殿の方へ戻ってくるのが見えた。田中はふんふんと鼻息あらかったが、対して辻はしかめっつらを通り越してどこか苦しげだった。  辻は本殿まで帰ってくると竜一に紙とペンを持っているか聞いた。ノートとボールペンを貸すと柱の陰で何か書き付けてページを破り取った。それを細長く折り畳み、結んで田中に渡す。 「これを梅原にわたしとけ」 「はい!梅原にバシっと叩きつけてやりますよ」 「いや、渡すだけでいいんだ。後はほっとけ。俊英との件はこれで手打ちだ」 「はぁ……」  辻は口伝えの伝言を託すには、田中には荷が重いと思ったようだ。  真島と田中が石段を下りて帰って行くのを見送ってから、辻と竜一も本殿を後にした。  辻は黙って竜一の先を行く。竜一はとぼとぼと後に続いた。お互い別のことに気を取られているのはわかっていた。  石段を下りきって、電柱の脇を抜けアパートへの近道となる路地裏に入った。くねくねと折り曲がる、外灯も何もない暗い小道を行く辻の背中はあの夏の夜を思い出させた。一時はやせ細った体も、食べて、動いて笑っているうちに元に戻り、今では以前よりしっかりした体つきになっているのがジャージ越しにもわかる。  竜一は思わず、辻の背中にとりすがった。  辻の驚きが体から伝わる。 「ごめん。つい」  寒さに震える身体から熱い息が漏れた。  辻は竜一の胸にもたれかかるように力を抜いた。 「夏に、お前について行ったら、どうなってたのかな」  辻は胸の前で組まれた竜一の手を力強く握った。 「お前は、そんなこと考えなくていいんだよ」 「……わからねぇんだ。全然、想像できないから、余計に考えちまう」 「もう、終わったことだ。わからないままで、いいじゃないか」 「……うん」  正確に言えば想像はできる。  だが、その想像の自分の姿は、揺らめくように坂口の姿と重なっていた。修羅場と化した夜の白波止に、確固とした個人としての竜一の姿は見えなかった。  こんなこと、辻に言えるわけがなかった。

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