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愛人と本妻(16)

 辻は竜一の方に向き直り、「今日は、どっちに行く?」と聞いた。前髪をおろした辻はちょっと幼く見えてかわいらしい。 「海に行こうぜ。風もないし」  防波堤沿いの浜の通りはぽつりぽつりとしか灯りがついていない。じんわりと東の空が紫ががかって夜明けが近いことを知らせているが、まだ夜の世界の余韻の方が濃厚だ。  夏に神楽の舞台ができる御旅所の波止に、二人ぶらぶら足を運んだ。 「時間、あるか?」 「うん、夜が明けてから歩き出しても、大丈夫だろ」  祭りの夜は人がわんさかいて、どれだけ広い波止なのかと思うが、こうやって誰もいない時に通るとこんなに狭い道だったかと驚く。さらにこの脇に屋台が立つのだ。  夏は舞台が作られている場所も、今は吹っきさらしの空き地だ。  空がだんだん白み、夜が明けてくる。  珍しいほど風のない静かな朝だ。波もほとんど立っていない。まるで鏡のようにまっ平らで、歩いてわたって行けそうなほど凪いだ海だった。  辻は昨日のようにべったりと身体を求めてくるようなことはなかった。ちょっと斜に構えてじっと沖合を行きかう漁船を眺めていた。 「やっぱ、お前は強いよな」  ぽつりと辻がつぶやいた。 「だから、俺はしっかりもしてねぇし……強くもねえよ。お前の方がよっぽど……」 「俺は卑怯者って言われたくないだけの臆病者だ」  朝日を背にして辻は竜一に向かい合った。 「お前は違う。一人でもこつこつできるし、思い切ったこともできる。それに……ちゃんと友達も作れる」 「さっきの話、聞いてたのか。あいつらは友達じゃない。ただの知り合いで……」  辻は柔らかなくせっ毛をぐちゃぐちゃと右手でかき回し、傷をひきつらせながら笑った。 「そうじゃなくてもよ、その縁、大事にした方が良いと思うぜ」 「ちょっとまってくれよ、お前と俺は……」  もっと強い絆で結ばれている。そう言おうとしたが、その前に辻の口から出てきた禍々しい名前に竜一は身を固くした。 「坂口なぁ……、割と早く帰ってくるかも知れねぇ」 「帰って……くる?」  辻は目を細めて、言葉を選んだ。 「俺は……俺はなぁ……日曜に役所に呼び出された。……坂口の罰がなるべく軽くなるように頼んでたんだ」  竜一の身体はぶるぶると震えだした。視界が白くなっていく。怒りなのか嘆きなのかわからないが、熱くて冷たいものが全身を駆けめぐり嘲笑する。 「なんであんな奴の味方するんだよ……」  荒れ狂う竜一の内面とは対照的に、波はますます穏やかだった。辻は吹きっさらしの空き地に立膝をついてすわりこんだ。 「俺はよ、ここに残って漁師になる。まぁ父ちゃんが許してくれたらだけど。どうせ坂口もここに帰ってくるだろう。誰も待ってないだろうけど、俺は、待ってやりたいんだ……いや、待ってなくちゃ、いけないんだ」  竜一を膝を突き、辻の背中ににじり寄った。 「でも、……でもよ、香具師になりたかったんだろ?!あいつはお前の夢をぶっこわしたんだぜ!」  辻は身じろぎ一つせず続けた。 「俺にはさ、夢とか、憧れとか、全然ねぇんだ。大きくなったら何になるか聞かれてもまともに答えられたためしがねぇ。だからよ、香具師になりたいってのも、……なんか……なんでもいいから町を出たかったんだ。お前の居ない町に居たくなかった。だから、夢なんかじゃない。俺は夢も見られない怠け者の豚野郎だったってわけさ。だから、坂口に夢を奪われたなんか思っちゃいねぇよ。ねぇもんは失いようがないからな」  この町の大人はみんな誇りを持って生業を生きている。浮ついた夢なんか持たない。夢をもって、何かをやりたい人間はここには残らない。 「じゃあ……じゃあ!せめて秋祭りの前に何があったか教えてくれよ」  辻は静かに言い放った。 「それは、俺と坂口の問題だ」  ふわふわと体を浮かせていた微粒子が消えた。足元にはもう、何も無かった。 「俺は……じゃあ俺も残る。俺だって夢なんか持ってない」 「やめとけよ。がらじゃねぇだろ」  竜一はあがきにあがいた。自分でも滑稽に思うほどに、必死に。 「いやだ。俺と一緒に行こう。一緒に町を出よう」  無様に震えた竜一の声を包み込むように、辻はとろけるような優しい声で答えた。 「俺は、お前のおかげでこのご面相でも、外に出られた。今ならどこにだっていける自信はあるさ。でも……今はここが俺の居場所だって気がしてるんだ」 「俺は……」  旧友たちからの疎外感。  乗ることのできない船。  住む資格もないのに住んでいるアパート。  竜一には夢があろうが無かろうが、いつかはここを出て行かなければならない。 「……俺の……居場所……」  たとえ無理に辻を町から連れ出して、どうなるものでもない。  辻は「どこにでも行ける自信はある」とは言うが、自信を体現するには相当の努力が必要になる。  まず見た目がとがめられるだろう。理由を聞いてくれる人間もいるかもしれないが、聞かれたところで素直に喧嘩傷だと言えばいい顔をされないに決まっているし、簡単に受け入れる人間は信用できない。  それに竜一の関係がまたからみつく。町から出れば、思わぬ受け取り方をされるのはすでに経験済みだ。  何にせよ辻にへたくそな嘘をつかせ続けることになる。  辻を「居場所」から引き剥がし、神楽をとりあげ、その上嘘をつかせる。  辻はこれらの試練をおそらく乗り越えられるだろう。  しかし「竜一が与えた試練」を辻が乗り越えたとして、祝福し、抱き合って喜べるわけがない。そんな無神経な振る舞いをする自分を想像すると反吐が出そうだ。  こんな試練をあえて「与える」権利などない。 「俺の居場所は……ここには無いんだな」  辻は身をよじらせて、竜一を抱き寄せた。 「まだ、あるさ。……まだ、大丈夫……だろ」  耳元で辻は何度もささやいた。自分がそう思い込もうとするように。  ほんの十日ほど前まで「待っていてもいい時間」が少なくなっていくことにおびえていた。その後のきらきらと光る美しい時間にかき消されていたが、時計の針が消えたわけではない。今も非情に進み続けている。「待っていてもいい時間」は「竜一がこの町を居場所とできるタイムリミット」でもあった。  夜が明けきって、どちらからともなく立ち上がった。しっかりと手を握り、二人で駅に向かった。駅舎には誰もいない。陸橋の階段の隅で二人は唇を重ねて、舌をからめ、肉体を、体液を、体温を確かめ合った。竜一には快感しかなかった。辻の頬も上気し、夢中で竜一の舌を吸っている。  まだ、必死になって貪るほどの幸せを感じているのに、すでに一つの期間が終わった気がした。

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