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愛人と本妻(18)

「三上くん、昼はどうする」  触り心地の良さそうなベージュのマフラーをはずしながら、間城がずかずかと竜一のクラスに入ってきた。 「昼って?」 「僕たち神楽見に行くって聞いたんだろ。君も行くんだよね?」  まったく、どこまでも強引な奴だ。 「いや、課外があるから、行かない。……間城は休むのか?」  課外は休んでも成績には関係ないが、一教科いくらと値段が決まっている。 「ああ、届けは出しておいたよ」 「『神楽見に行くから休みます』って?」 「これだって立派な勉強さ」  けろりとした顔で言われたら、教師も肯かざるをえない。なんだかんだいって優等生に教師は弱いのだ。果たして間城が正統派の優等生と言えるのかはわからないが。 「案内してもらおうかと思ってたんだけど」  竜一は頭を抱えて机に突っ伏してしまいたかった。  辻と竜一はただの幼なじみに戻った。竜一が高校の同級生として間城たちを紹介して、竜一は辻を地元の友人として紹介する。  ありえない。とりあえず、今は。 「場所は教えただろ。とにかく、今日は……ちょっと勘弁してくれ」  さすがの変人も竜一の様子がおかしいのには気づいたようだった。 「じゃあ今日は遠慮しておくよ」 「あっちは雪多いぞ」 「わかった。ありがとう」  来たときと同じく唐突に間城は去っていった。  辻が王様なら、間城は王子様のようだ。廊下には間城の友人――桐島というらしい――が家臣のように控えていた。間城が行ってしまった後、ドアの隙間からちらっと竜一を見てにこっと笑って手を振ってきた。竜一もなんとなく手を振りかえした。  午前中の授業は全く頭に入らなかった。そのうちぼんやり昼が来た。  間城たちはもう学校を出ているはずだ。彼らは辻の舞をどう見るだろうか。辻は間城を満足させることができるだろうか。今朝の出来事のせいで本調子が出なかったら、辻にも間城にも申し訳ない。  なんだか変なことが心配になってきた。  調子を落とした姿を見て、辻の舞がこんなものかと評価されるのは耐え難い。間城のことだから「すごいって聞いてたけど、大したことないね」くらいははっきり言うだろう。それをまた竜一が「いや、普段はもっとすごいんだ。俺のせいで調子が出なかっただけで……」などと脇から言い訳するのか。  アホらしいと思うが、やってしまいそうだ。  やはり、辻の舞に関しては竜一はただのファンだ。恋とか愛とかセックスとか、一対一の関係抜きで魅了されている。今更、間城から気づかされるとはお笑い草だ。  年に一回か二回、神楽を見て満足できるただのファンになれたらどんなにいいだろう。それで間城や東や桐島ときゃっきゃ言いながら感想を述べ合う。楽しそうだが妄想はむなしい。  一人もそもそと弁当を食べ終わり、午後の課外授業の準備を始めた。  ノートを開くと、変な癖がついていてしまったのか、裏表紙がぺろりとめくれた。最後のページをばりばりと破り取った跡がある。辻が梅原への手紙を書いて破ったページだ。ほんの一週間前なのにもう懐かしく感じている。竜一はノートの破り目をそっと指でなぞった。自分でも気持ちが悪いほど感傷的だと思う。さらにノートにはもっと濃厚な辻の痕跡が残っていた。  辻は柱を机代わりに筆圧の高い文字をボールペンでぐいぐいと書いた。その文字がまだ書き付けた下のページにくっきりと残っていた。  “信じてやるよ”  梅原がわざわざ一人でやってきて、どうしても辻に伝えたかったこと。  辻に信じて欲しかったこと。  辻が信じたこと。  そんなもの一つしかない。梅原は刃物を持っていなかったのだ。  それがわかっていても辻が坂口を待っていなければならないと言った心の内には、ただ仲間だから、坂口を信じたいからという単純なものではなく、自分が事をおさめなければならないという義務感めいたものがあったのではないか。  突然に、あの幻想がぶりかえしてきた。  夏の夜の白波止にもしも自分が居たら。  絶頂の予感の中で竜一と坂口は同化する。  坂口がやろうが、竜一がやろうが同じことだ。  梅原を暗い海に突き落とす。  辻は梅原を助けようとする。  その時、自分はどうするだろうか。  裏切られたと思うだろうか。それとも辻の行動にうっとりと見惚れるだろうか。  それとも  辻と一緒に海に落ちる。  ずっとずっと二人で海の中を落ち続ける。  セックスよりも深い快感が海の底にある。  実和子に助けられる前だったら、辻の帰還の前だったら、ここが青い宝石の中だと確信してしまったかもしれない。  しかし竜一はもうあの夏の夜には帰れない。すべてが変わってしまったのだ。  やはり“あの言葉”は一生ついて回る。竜一に「おそれ」を教え続けてくれる。  竜一は自分が陥っていたかもしれない状況に恐怖を感じた。  辻は、秋祭りの前夜の件は辻と坂口の二人だけの問題だと言うが、それで話はおさまるだろうか。  辻は坂口を待っていても大丈夫なのか。  自分の中にも怪物が居たからわかる。怪物は異化されないかぎり、怪物であり続ける。  やはり聞きたい。聞かなければならない。秋祭りの前夜何があったのかを。そして坂口の中にいるかもしれない怪物について、辻に伝えなければならない。  そしてきっとそれだけではない。  竜一と辻と坂口は切っても切れない縁で結ばれている。  その“縁”は友情や愛のように甘く儚いものではない。苦々しいほど太く、疎ましいほどに強い。  何がどうなろうと決して「辻と坂口だけの問題」では終わらせることはできないのだ。  竜一は荷物をまとめて教室を飛び出し、廊下を走り階段を滑るように駆け下りた。途中、教師に見つかった。 「おい、三上、どこに行くんだ」 「すいません、今日は課外は休みます」 「おいおい、課外だからって手抜いたら……」  問答するのももどかしい。 「先生は今、奥さんから実家にかえりますって電話があったら家帰りますか」  教師はめんくらって眼鏡をずらした。 「……そ、そりゃあ……うーん……帰るさ」  竜一はにんまりと笑って階段を駆け下りながら言った。 「俺も同じです。それじゃ!」

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