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愛人と本妻(19)

 左足を蹴り出すと溶けたシャーベットのような氷が足下をすくった。 「おっと」  慌ててついた右足がべしゃりと雪の塊を踏みつぶした。ズボンの裾はもうびしょびしょだ。  かまわず竜一は坂道を走り下った。  中途半端な時間に学校を出てしまったのでバスと汽車の接続が上手くいかず、その上べちゃべちゃの溶けかかった雪道に足を取られたため、課外授業を受けてから帰ってくるのとさほどかわらない時間になってしまった。  神楽の練習はもうはじまっているだろう。じりじりしながら国道の信号が変わるのを待ち、悪路を猛スピードで下った。転ぶことなんて一つも考えなかった。  足にまとわりつく水氷を蹴散らして神社の石段にたどり着く。石段はきれいに掃き清められていた。石段の上は人の気配であふれている。  石段の下から空を見上げると、どんよりとした灰色の雲が天に蓋をするように覆っている。朝よりは降りは弱まったが、時折、思い出したようにちらりほらりと雪が降りてくる。  上からは甲高い笛の音と小気味よい太鼓のリズム。もう練習ははじまっているようだ。  さっきの勢いはどこへやら、石段を登る竜一の足取りは重かった。辻の事だけを考えてここまで走ってきたのに、辻の舞を見るのには不安があった。  ここでもし辻が実力を出せなかったら、責任も感じる。  かわいそうで目も当てられない。  辻を信じるしか、……辻を信じるしかない。  一段登るごとに人々のざわめきが聞こえてきた。  さらに一段登ると感嘆のため息混じりの歓声が聞こえる。  残りの数段を登り切ると祭りの当日と変わらないほどの人々が集まっていた。  この町の住人だけではない。他の町からも大勢やってきている。 「三上さん、ここ、ここ」  田中と真島が練習場の向かいに立っている木の上から声をかけてきた。 「ここからならよく見えますよ」  真島は木から飛び降りて席を譲ってくれた。 「すまん、ありがとう」  幹にしがみつくようにして枝と又になっているところに座り込んだ。少し離れていたが練習場の中は丸見えだった。  舞台の目の前にはパイプ椅子が三つ並べられ、それにはあらかじめ連絡をとっていた間城と東と桐島が来賓よろしく座っていた。  三人とも舞台を目の前にし、身じろぎ一つしない。  辻の舞は圧倒的だった。今朝の動揺など微塵も感じさせない。スピード、回転、軽やかさ、華やかさ、見るたびに成長している。  身体技術だけではない。辻の舞にはなにかずしりとしたものが加わっていた。それが辻を中から支えている。  遠くから見ていても辻が今朝の出来事など毛ほども気にしていないのがよくわかる。きっと竜一がすぐ側に居ても気づかないほど集中しきっているだろう。  そんな辻に竜一はぞくぞくと喜びがわき上がってきた。  これが辻済の真骨頂だと思った。  どんなことがあっても、自分のやりたいことにはまっすぐ、崩れない。非情なほどに真面目なのだ。  そして、こういう辻が竜一はたまらなく好きなのだ。  練習が一通り終わり、団長が今年の〆の挨拶をした。あまりにも人気が加熱しすぎている現状に、神楽団としても戸惑っているということで、年が明けてからは公開練習は月に一度になるかもしれないと報告すると、見物人たちからは大ブーイングがあがった。  駐車場の問題や、人が集まりすぎることへの懸念が行政や警察のほうから指摘されたらしい。この件は引き続き検討することとなり、子どもにはお菓子が配られた。大人たちはそのまま公民館で一杯飲むことになっている。ばらばらと人が帰っていく様を木の上から見下ろしていると、練習場から間城たち三人が現れて竜一を見つけた。 「あら、三上くん課外は?」  東が背伸びするように見上げた。 「あ……行かないつもりだったんだけど、ちょっと用事思い出して」  竜一は木から飛び降りて、間城たち三人と、真島と田中の紹介をした。  田中は普段接しないタイプの三人を見て赤面してしどろもどろになってしまった。  真島は竜一に紹介されると、にこやかに間城と桐島に握手を求めた。抜け目なく東にも。  それを間城が物珍しそうに見ている。  緊張に耐えられなくなったのか田中は真島の腕をひっぱって早々に帰ってしまった。  一番人見知りしなさそうなのにちょっと意外だった。  四人だけになると、間城はぱっと神社の崖っぷちまで突然走り出した。 「あ、あれかい。君が飛び降りたってアパートは」 「お、おい、間城……」  桐島が慌てて止めたがもう聞こえている。  竜一はため息をつき、渋い顔をしながらも答えてやった。 「飛び降りようとしたんじゃない。二棟あるだろう?あの間を跳ぼうとして……落ちただけだ」  それを聞いて間城は腹を抱えて笑った。 「失敬、失敬。僕は今、素晴らしい舞を見て、興奮してるんだ。たしかに、今なら僕でも飛べそうな感じがするよ」  竜一も笑った。 「俺だって、いけると思ったんだよ。誰も信じちゃくれなかったけど。自殺しようとしたって思われたんだぜ。たまったもんじゃねぇ」  一年前なら絶対に言えなかったことだ。  竜一の横で東が目を丸くしている。 「三上くん……そんなことしたの?」 「おいおい、東さんは去年同じクラスだっただろ」  東は本当に痛そうに右手で額を押さえた。 「本当にいやんなっちゃう。私……クラス内の出来事にすごく疎くって……。知らなくて、ごめんなさい」  これには竜一も苦笑いだ。間城がまた大口を開けて笑い始めた。 「まったくもって、東らしいよ!」  これには桐島もお手上げポーズで首を横に振るのみだった。  間城の腕時計がピピッとなった。 「おっと、帰りの列車の時刻だ。今日の主役と挨拶したかったんだけど、帰らなきゃ」 「今日の主役って……『神子』の役の……顔に傷のある奴か」 「そういえば、あったね。まぁそんなのあの舞を見せられちゃ関係ないさ。夏の本番は必ず見に行くよ。もしも知り合いだったら伝えておいてくれ」  竜一は胸が熱くなった。自分が教師たちに褒められてもしらっとしただけだったのに、間城に辻が評価されることに、嬉しさと安堵と、喜びを感じた。自尊心が無いといわば言え。竜一は自分よりも辻が評価される方が比べることもできないほど嬉しかった。  そこで初めて、自分が間城を信用しているのだなと実感した。信用する人間からの評価だからこそ、嬉しいのだ。  竜一が嬉しさに頬を紅潮させている間にも、間城は帰り支度を終えて、石段を降りようとしてた。 「必ず、伝えるよ。あいつは辻(つじ)済(わたる)っていうんだ。済は経世済民の済。みんなをすくうって意味だ」  間城の目がきらっと輝いた。好奇心のスイッチが入ったのだろう。 「そうか、ありがとう。じゃあ、また学校で」  間城は東と桐島を従えて去っていった。三人はなんども振り返り、手を振った。

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