37 / 44
愛人と本妻(21)
風に乗って遠くから海鳴りが聞こえた。
「お前が危ないかもしれないって言いたいんだよ。俺は……運がいいんだ。今はあの時の自分が怖いって思えるから。坂口は怖いって思ってるのか……心配なんだ」
「大丈夫だろ、……多分」
かすかに聞こえる海鳴りにさえかき消されそうな声だった。
「お前は絶対大丈夫だって言うと思うから余計に不安なんだよ」
「……なんでもかんでも見透かしたように言いやがって。頭がいい奴はこれだからやだね」
弱気なところを見せてしまった反動なのか、急に辻は強い口調で言い返してきた。ついつい竜一も大きな声になった。
「別によくねーよ!上には上がいるんだよ!いや、そんなことどうでもいい。お前が大丈夫だって言う根拠が知りたいんだ。だから、あの日坂口と何があったのか……」
竜一がしゃべっている途中で辻はフンと鼻をならしてそっぽを向いてしまった。
「うっせぇな」
日は海の向こうに消えかけている。石段を照らす街灯がぱっと灯った。
白っぽい光が辻の横顔を照らした。誰も、辻自身も気にしなくても傷はずっとそこにある。
「……そんなに、言いたくないのか」
また朝の情けない気分がぶり返してきた。
自分の不安を打ち消すために、辻のふさがりかけた傷口をえぐろうとしていたのではないか。心身ともに傷ついた人間に何故そんな目にあったのか尋ねるなど、どうかしている。
「……ごめん。もういいよ。聞いて悪かった」
竜一は立ち上がり、無言で辻に背を向けた。
突然、辻も立ち上がった。
「お前、俺をなめんてんのか」
顎を引いてきつい目で竜一をにらみつける。最近見たことが無かったが、辻は喧嘩や何か勝たなければならない争いごとの前にはこういう目つきになるのだった。
「え、そういうつもりじゃ……」
他の町の人間にはただの意味不明の言いがかりにしか聞こえないだろう。
「ああ、そうだ。なんかお前らにやましいとこがあるから言えねぇんじゃねえのか、ああ?」
この町の人間である竜一はあえて辻の言いがかりに乗った。
「やましいところだと?」
「酒が入ってべろんべろんだったとか色々聞いたぜ。俊英の陰謀だとかよ、高校の内紛だとかよ。あのころ町じゃ噂であふれかえってたぜ。いつもつるんでいきがってるくせに肝心なときに仲間割れかってよ!」
さらに辻の目が据わってくる。拳を握りしめて竜一の暴言を全身で受け止めていた。辻は本当に腹が立つと怒りを一度ため込んで爆発させるタイプだ。子どもの頃から変わってないなぁ、と頭の片隅は変に冷静な部分も残っているのに、秋からこっちずっとため込んできたものがせききったように口をついて出てきて止められなかった。
「坂口と女をとりあったんだとかよ。ひでぇのなんざ坂口とできてて無理心中しようとしたとかよ!自分の……」
竜一は言葉を切った。今、自分が辻に対して抱えている気持ちが何なのか混乱していた。
隣人であり、幼なじみであり、友人であり、ファンであり。
嫉妬するほどの憧れであり、憎しみに近いほどの執着を持ったこともある。
“愛人”としか思われていないかもしれない。
“仲間”にはついになれなかった。
今でも恋しい人。
すべてがごじゃまぜになって、何と表していいのかわからない。言葉がみつからない。
辻の目は刃のように鋭くなっていく。筋張った握り拳に力がこもっていった。
ぞくりと竜一の背筋に冷たくて熱いものが走った。同時に自分の中にどうしても消えない衝動があることにおののいた。
何がどう連動しているのかわからない。自分が本当の所、何を求めているのかもわからない。しかし辻が怖さ――特に肉体的なもの――を見せるほど、暗い情欲が強くたかぶってくるのは間違いない事実だった。
一度味わった快楽を求めて身体の中がうずきだす。
怪物の影が、竜一の一番ゆがんだところ、深いくぼみでうごめいている。
怖さを別のものにすり替えてしまう怪物。
怖いことが怖くなくなることの恐怖。
怪物は何度でもよみがえるのか。そのたびに自分を嫌悪し、辻を恨みがましく思わなければならないのか。そんなのはもう終わりにしたい。しなければ。
竜一は何も考えず一番新鮮で、一番根本的な思いを辻に、自分に、ぶつけた。
「自分の……自分の好きな人のこんな話ばっかり聞かされてみろよ!本当の事が知りたくなるにきまってんじゃねぇか馬鹿野郎!」
きつく燃えたぎった目は、すっと静かな悲しみのこもったまなざしに変わっていった。
竜一が思わず本音中の本音まで吐いてしまったのは、辻の狙いだったのか偶然だったのかはわからない。ただこうでもしないと、辻は喋る気になれなかったのはわかっている。だからこそ竜一は乗ったのだ。
「じゃあ教えてやるよ、この野郎」
辻は自分自身に喧嘩を売って勝ったのだ。
ともだちにシェアしよう!