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愛人と本妻(22)

 「頭を冷やしたい」そう言って辻は石段を下りずに境内を抜けていった。  その横に並んで竜一は辻が話し出すのを待った。  日はすっかり落ちて、雲間から細長い月が姿を見せていた。  小さな家々の立ち並ぶ細い通りを行く。次第に家がまばらになり、あいだあいだに畑が増えていく。  町のはずれから、丘の上に向かってさらに細い坂道が延びていた。  コンクリートで舗装された白い小道はかすかな月の光にもぼんやりと光っている。  登り口の急な坂を上ってしまえば、ゆるやかな斜面が続いていく。  丘を覆うように畑がはりついていて、足下にはこもを巻いた白菜や、葉っぱのしおれた大根が眠るように植わっていた。 「秋祭りの前の夜、坂口は包丁を持ってきてた」  何のきっかけもなく唐突に辻は口を開いた。 「祭りになったら、また梅原たちが獲物持ってくるに違いないから、これで返り討ちにしてやる、ってよ」  月と、かすかな街あかりが辻の唇から漏れる息を白く映し出す。辻の口調は全く平板で淡々としていた。 「俺は、馬鹿馬鹿しい、そんなことあるわけねぇって言っちまった」  もうすぐ、丘の上にたどり着く。この町で一番空に近い場所。道の向こうの青黒い天球に雲の影が流れ、星が光っていた。 「坂口も、自分の言うことがみんなから信用してもらってねぇってわかってたんだ」  丘の上の十字路にたどり着くと辻はころんと大の字になって寝っころがってしまった。 「俺も……信じてやれなかった」  上から竜一がのぞき込んでも、知らん顔で辻は空だけを見続けた。 「言葉だけでも、お前のおかげで助かったって言えば、坂口はあんなことしなかったんだろうよ」  無理だ。辻にそんな言葉だけの嘘、つけっこない。 「話にしちまったら、これだけのことだ」  竜一は辻が寝転がっているのを後目に、ただ突っ立っていた。  海を見た。  高みから見る夜の海は夏も冬も変わらず真っ黒で何もない。 「それが、お前の“本当”なんだなぁ」  人事のように竜一は感想を述べた。  実に自己中心的ではあるが、竜一は疲れ果ててしまっていた。 「ああ、坂口の“本当”は、どうだかわかんねぇけどな」  きっと辻も疲れていたのだろう。真冬のコンクリートの上など温かいはずがないのに、横になったまま起きあがってこなかった。 「本当に、悪かったよ。自分勝手に押し掛けて、話したいだけ話して、話させて、結局何の役にも立てなさそうだ。俺も……頭が冷えた」  竜一はそっと辻の横にしゃがんだ。 「確かに俺は、坂口を救えると思ってたのかもしれない。身の程知らずなことに。それがわかっただけでも、よかったと思う。ありがとうよ」  坂口が帰ってこないと、何も始まらない。帰ってくるとわかっていても何も手出しできない。この件については坂口の出方次第だ。 「おおさみぃ、冷え過ぎちまった」  ひょこんと辻が上半身を起こした。 「そりゃそうだろうよ」  力なく竜一は笑った。

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