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もう傍にはいられないから

 見たくないんだ。そこに並んでいるはずの女物の靴も。俺が通っていたときにはなかった、手作りのご飯を食べた痕跡とか、そんな感じのモノ。  コートの上から自分を抱き締めてカタカタ震えて足を踏み出さない俺をどう思ったのか、健吾さんも足を止めた。  内玄関に立って俺の腕を掴んだまま、ドアの横に立っている俺を待っている。  もう、そこには行けない。来るなって言われた土曜日だ。入れるわけがない。目を閉じたままでも涙が溢れてきて、そのまま首を振ることで意志を伝えようとする。言葉なんて出せない。口を開いたら泣いてしまう。 「いいから、とにかく入れ。ほっぺ、冷やしてやるから」  温もりが頬に触れて。そうっと目を開けると、手のひらで包むように撫でられていた。その瞳は初めて見るくらいに優しく凪いでいて、今すぐにでも胸に抱き付きたくなる。  もう、ダメなのに。  ここは、俺がきちゃいけないところなのに。 「ひとみ」  駄目押しのように呼ばれて微笑まれたら、抵抗できなくなった。  ヘたり込みそうになった俺を横抱きにして、ちゃんと靴を脱がして自分も脱いで、健吾さんが部屋に上がる。鍵まで掛けていたから、器用だなって思った。  冷やすって言ったのに、タオルを出すでも保冷剤を持ってくるでもなく、エアコンで暖められた室内で、何故かどんどん服を剥ぎ取られていく。  展開に付いていけなくてされるがままになっていると、まだ着けたままのサポーターの上から胸を撫でて、「これは?」と健吾さんが囁いた。 「あ……肋骨、折られて。まだ治ってなくて」  普段動かずにはいられないから、治りにくい場所。腕や足みたいに固定も出来ないから、ちょっとしたことでズレてくっつきにくいんだって教えられた。  腹もあちこちに大きな黒紫の痕が残っていて、それを擦りながら健吾さんの瞳にドス黒い炎が揺らめいているように見える。 「ほかは?」  と問いながらも、上半身を気遣ってくれているのか寝かせることも出来ず、健吾さんの手がケツに回り、そうっと尻タブを広げられる。  チッと舌打ちが聞こえた。  そこは、今でも腫れぼったくなっていて、変な擦り方をされたら出血することもあった。健吾さんに見られていると思うだけできゅうっとそこが窄まり、それを見た彼が引き出しからあのゼリーのチューブを出してくる。 「ひとみ、力抜け」  反射で言われたとおりにしてしまい、後悔した。そこは、家に帰ったら真っ先にシャワーで中まで洗うところで……。案の定、中から重力に従って垂れてきたモノを見て、健吾さんの柳眉が上がった。 「っな……あいつ……!」  ぐい、と手を引かれて、バスルームに連れ込まれる。浴槽の縁に手を突くように誘導されて、突き出した俺の尻ごと健吾さんが指を突っ込んで中から掻き出しながら洗っていく。  喜んでいいのか悲しんでいいのか解らない。  どうして? 捨てたのに。要らないって、来るなって言ったのは健吾さんなのに。なんでここまでして、怒ってるような顔するの。 「……っかんな……ぁっ」  嗚咽が漏れて、洗い終えた俺をタオルでくるみながら、健吾さんは戸惑っているように見えた。 「どうした? 沁みたのか」 「ちがっ、なんで、健吾さん、も、俺なんか会う気なくて、来るなって言ったくせにっ」  ついに疑問をぶつけた俺に舌打ちして、その音にビクッと肩を竦める俺を見て、悪いと呟く。  また抱き上げられて部屋に戻ると、そのまま俺を膝に載せるようにして、健吾さんはベッドに腰を下ろした。 「土曜日は来るなって言っただろ。そうしたら、他の日に来ると思って」  健吾さんの言い分に、頭を殴られたような衝撃が走る。 「んなこと……俺、土曜しか来てなかったから、もう来るなって意味にしか」 「まさかそう取ると思わなかったんだよ。すぐは無理でも、バイトのシフト変えて平日に来るかなって」 「女の人、連れ込んでるし。彼女出来たなら、俺は要らないしっ」 「彼女じゃねえよ。声掛けてきたから連れてきたけど、向こうだってその場限りってつもりだったし」 「そんなっ、そんなのっ……解んねえよっ」  ついに涙が溢れて止まらなくなった。  どっちが馬鹿なんだろ。勘違いして、捨てられたって思った俺? それとも、俺が来るの待ってるだけで電話すらしてくれなかった健吾さん?  どっちにしても、時間は巻き戻せない。  その日の内に既に他の男に犯された俺は、やっぱりもう健吾さんの傍にはいられない。 「も、いい。解った。健吾さんは俺のこと待っててくれたんだ。それでいいや。安心した。ありがと、また助けてくれて。じゃ、もう帰るから」  もがいたら、すてんと落ちるように体が床に着いて、恐る恐る這いずって服のところに行くと、ゆっくりと身に着けていく。  勢いで言った別れの言葉が揺らぐかもしれなくて、その間ずっと俯いてた。それから、どうせ最後ならちゃんと目に焼き付けておこうと思って、もう一度顔を上げる。  ベッドに腰掛けたままの健吾さんと視線が絡んだ。ふわりと微笑んだ口の端が、痙攣したように見えた。 「そうか、今度捨てられるのは俺か……また、失敗したのか……」  泣きそうなくらいに瞳が揺れていて、動悸が激しくなる。 「ダメだなー。目の前にあるもの取りあえず食っちまうの、俺。そんで、ずっと傍に居た人が居なくなって初めて気付くのな。取り返しがつかないことして、ようやく気付くんだ。だから、遅いんだって――」  ボスッ。健吾さんの拳が布団に叩きつけられて。両手で頭を掻きむしる仕草に、呆然と見入ってしまう。  何が遅い?  俺の心がもう健吾さんから離れてるって、そう言ってるの?  ボスッ、ボスッと断続的に布団を殴る手を包むように、近寄って俺は跪いた。 「遅いのは、俺の方だよ」  口を開いた俺に、目を見開く。 「あの日すぐに、あいつに拉致られて暴行された。健吾さんが壊してくれたけど、いっぱい写真撮られて、言うとおりにしないとネットに流すって脅されて、仕方なく通ってたよ。健吾さんとよりずっと頻繁に呼びつけられて、突っ込まれて中出しされて。俺は一度もイったことない。気持ち悪くて痛いだけのあいつのオナニーに付き合わされて、だけどあいつが飽きるまでって覚悟を決めてた。  そこから救い出してくれたのは健吾さんだよ。それだけでいい。もう俺の体はボロボロで傷んでて、おまけに汚れきってる。もう、健吾さんに抱いてもらう資格なんてない。だから帰ろうとしたんだ。こんな俺じゃ、女の人の代わりも出来ない」  とつとつと喋り続ける俺に身じろぎ一つしないで耳を傾けていたのに、最後の言葉にギリッと歯を擦る音がして、ちゅっと口付けが降ってきた。 「代わりなんて、いっぺんでも言ったか、俺が」 「い、言ってない、と思うけど」  睨み付けられて、身が竦む。

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