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第5話
「お兄ちゃんたち、どうして、3人で手をつないでいるの?」
「え???」
その言葉に由樹は視線を下ろした。
シワシワのシミの浮き出た手が自分を掴んでいた。
穏やかな微笑みを浮かべている白髪のおじいさんのものだった。
そして、そのおじいさんの逆側の手を彼が掴んでいる。
ひぇー!
由樹は驚きの声をすんでのところで飲み込んだ。
すっかり、憧れの彼だと思い込んでいた。
こんな展開、予想もしていなかった。
「……そういうことか。……くそじじい……」
舌打ちとともに、憎々し気に吐き捨てるような呟きが聞こえてきた。
――え、誰? まさか、彼?
ガラの悪さにチラリと違和感を覚えるも、由樹への痴漢行為に対する怒りからと納得する。
本来の彼は、もっと穏やかで大人の男のはず。
そこで、はたと肝心なことに気付いた。
――全部、彼に見られていた? あんなことも、こんなことも? そして淫らに反応して勃起していたことも?
つい先ほどまで行われていた淫猥な出来事を思い出して、由樹は耳の先まで真っ赤に染めた。
「楽しんでもらえたかな? 礼はいらないよ? 愛のキューピットは、ここで降りようかな?」
おじいさんは悪態に動じることなく余裕の笑みを浮かべたまま、ぱちりとウインクした。
車内はそれまでの混雑が嘘のように空間にゆとりが生まれ、残された由樹と彼は横に並ぶ形となった。
仄かにムスクの香りが漂う。
こんなに接近するのは初めて。
彼を見上げると、目線より遥か上に肩があった。
ただ、それだけの事なのに、由樹は心臓をドキドキさせた。
「いつも、あんなことをされているの?」
低くて張りがあり、心地が良いのに、腰にズンと響く不思議な色気のある声。
けれども、そこに苛立ちが混じっているのを感じ取り、由樹の浮上してきた気持ちが、地の果てに沈んだ。
「初めて……」
まさか、毎朝、老人に開発されているんじゃないかと不安に思っての確認だったのだが、由樹は自分が淫らに反応したことを言外に責められたと勘違いしていた。
相手が彼だと思っていたから、興奮して勃起までしてしまったのだ。
おじいさんだとわかっていれば、あんなことにはならなかった。
由樹は、俯いて、じわじわと滲みだす涙を必死にこらえた。
「……可愛すぎる……」
頭上からの声に顔をあげると、彼は目を眇めて窓の外を見ていた。
何か、窓の外にいたのだろうか?と、首をかしげていると、
「次の駅で、また大勢乗り込んでくるから」
由樹の手を握り、その体を壁際に追いやった。
駅に到着すると同時に、彼の言葉の通りに大勢乗り込んできた。
体の位置が入れ替わり、まるで人混みから由樹の事を守るような体勢になる。
――えっ? 手、忘れてる???
大きな掌が自分の華奢な手を包み込み、そのまま、忘れられたかのように放置されている。
しかも、恋人だけがするという、5本の指を絡ませた握り方。
胸がぎゅっと締め付けられて、心臓が早鐘を打つ。
指摘して、振りほどかれるのは勿体ない。
彼が降りるまで、あと2駅だ。
気付かぬふりで、「恋人つなぎ」を堪能したい。
――こんな僥倖、あってよいのだろうか? とんでもない落とし穴があるんじゃないか?
そう考えた途端、ギュルギュルギュルと激しい痛みが襲ってきた。
朝の腹痛の第2波が押し寄せてきたのだ。
――ええ? 落とし穴、早すぎ……負けるもんかっ! あと2駅、このまま持ち堪えてやるんだっ! それで連絡先を聞くんだっ!
腸の粘膜が、すごい勢いで蠢いている。
熱いマグマが、出口を求めて荒れ狂っている。
窄まりが、内側からの攻撃に悲鳴をあげて、決壊しそうだ。
由樹は、冷汗を流しながら、力を入れて必死にこらえた。
もっと、彼の手を握っていたかった。
連絡先を聞くまでは離れたくなかった。
でも、限界だ。次の駅まで持つかどうかも怪しい。
――ダメだ、噴火してしまう……
電車が駅に滑り込むと同時に、彼の手を振りほどき、「え? ちょっと、君??」と慌てる彼の言葉にも振り返らずに、全速力でトイレを目指したのだった。
□ ■ □
翌朝、由樹は、落ち込んでいた。
散々迷って、いつもの7時22分の電車に乗り込んだのだが、彼は乗っていなかった。
避けられたのだろう。
噴火寸前で緊急事態だったとはいえ、由樹の態度はあまりにも悪かった。
――失礼な態度を謝りたい。
とはいっても、彼と会えなければ叶わない。
自分は、彼のことを何も知らない。
彼が、7時22分の電車に乗らない限り、顔を見ることすらできないのだ。
由樹が、自分たちの縁の薄さに愕然とし、がっくりと肩を落としていると、
「朝から、辛気臭い顔をしてるな? どれ、達人が策を授けようかのう?」
昨日のおじいさんだった。
達人って、何の? ひょっとして痴漢の? と、問いかけたかったが、自重する。
とにもかくにも、あんな短時間で自分の恋心に気付いたのは、すごいことに違いない。
確かに、(何のかは知らないが)達人かもしれない。
由樹は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
つい、昨日までは彼の姿を遠くから眺めるだけで満足していた。
今は、それだけでは満足できない。
もう一度、あの男らしくてしなやかな手に触れたい。
あの低くて腰に響く声で、語り掛けてもらいたい。
彼の瞳に、自分の姿を映したい。
由樹は、一日で、すっかり、欲深くなってしまった自分に戸惑った。
「絶対に成功する秘策がある」
おじいさんは、フォッフォッフォと高らかに笑うと、そっと耳打ちした。
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