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しとしとと雨が降っていた。この街はよく雨が降る。カーテンをかけていない窓ガラスは夜の闇に染め上げられ、そこに白い雫が時折光って見える。空気がじっとりと湿って気持ちが悪い。だがそんなことを気にしている余裕などなかった。
「い……ッぎァ」
歯を食いしばって、掌に爪を食い込ませて、それでも到底耐えられない痛みが首筋を襲う。じゅるじゅるとセシルが鮮血をすする音は、肉食獣が獲物の内臓を引きずり出す様を連想させた。
暗い部屋。真っ白で真っ黒な部屋の中央に据えられたパイプベッドの上で、暁はセシルに喰われていた。両腕は皮のベルトで縛り上げられた上に頭上でベッドの柵と括られ、両脚は氷のように冷えた男の体に押さえつけられている。そんなことをしなくても抵抗などしないのだが、彼の趣向なのだから逆らいはしない。
「ふ、ゥ……、うぐ……っ」
「声を我慢しないで。その美しく醜い悲鳴をもっと響かせておくれ」
食い破られた皮膚に、セシルの鋭利な爪が突き刺さる。ひどく美しい顔で笑いながら、暁の白く細い喉の中をその指でぐちゃぐちゃとかき回す。喉の奥からたまらず悲鳴が溢れ出た。
「ああああァアアッ! う、ぎッ……!」
目を見開いて絶叫する暁のその様にうっとりと目を細め、ずじゅ、と行儀の悪い音をたてて血をすすりきる。血を失った脳に浮遊感が襲い来る。遠のく意識の中で暁は確かに射精していた。
セシルには、物語や伝説が告げるヴァンパイアとは違う点がいくつかあった。まずひとつは、弱点だ。通常ヴァンパイアや悪魔の類は日光や十字架に弱いとされるが、セシルは白昼でも堂々と外出し、日曜には教会にも訪れる。
もう一点。ヴァンパイアに噛まれた人間もまたヴァンパイアの仲間入りをするとの伝承が各地にあるが、今のところ暁はただの人間でしかない。ただし、セシルに何度も首筋の動脈を噛み切られているのに、こうして生きている。その点を除けば、普通の人間だ。
「私たちの一族は伴侶を選ぶんだ」
貫いた熱で暁を揺さぶりながら、セシルはどこか恍惚とした声で言う。血をすすったあとは心身が昂るらしく、いつもこうして暁を抱いた。
「あ、ああ、はぁ、ん」
耳ではセシルの言葉を聞いているが、快感に溶けた頭では理解が難しい。ベッドの上で四つん這いになりながら貫かれ、獣のようにむき出しの欲望でその快感を貪る。暁はもとより色に溺れる性質ではあったが、ここまで理性を溶かすことはそうなかった。セシルとの相性が余程よいのか、それとも。
「あの屋上で君が飛び降りたとき、ぐちゃぐちゃになった君の体に私は自分の血を注ぎ込んだ。そして君は私の伴侶となった」
屋上から落ちて死んだという妄想を見たが、現実ではセシルに抱き留められていた。そう思っていた。だがそちらが幻覚だった。暁は本当に屋上から落ち、一度死んだ。そしてセシルの血によって別の生き物として新たな命を吹き込まれた。
「伴侶は私から離れられない。どこにいても私を求めるようになる」
「は、あぁ、あ、んあっ」
だから、こんなにもセシルとの交わりに酔い痴れてしまうのだろうか。彼の滾ったそれが内壁を擦るたびに、そこがどろどろに溶けてしまうような。そんな錯覚に陥るほどに、ぐずぐずに解されて、ふたりの境界が曖昧になる。
「その身の内に私の血がある限り、君は死なない。不死とまではいかないが、大体のことは大丈夫だ」
それは恐らく、どれだけ噛み千切って血をすすっても大丈夫なように。死なない餌として生きる道になる。だがそれでも暁は構わなかった。どんな形であれ、誰かに必要とされることはこの上なく気持ちいい。
「そして私は君の血しか飲まない。分かるかい、アキラ。君は私に生かされる一方で、私を生かしていくんだ」
ああ、それはなんて。
「なんて甘美な共依存なんだろう……」
悦楽に溶けただらしのない顔でうっとりとつぶやき、それと同時に暁は達していた。己の手に吐き出された白濁を、セシルは真赤な舌でぺろりと舐め上げる。その光景にゾクリと背筋を震わせながら、暁の意識は遠くなる。文字通り血の気を失ってくったりと折れた紙のように崩れ落ちる白い背中を、雨雲の隙間から射す月明りがひっそりと照らしていた。
その日は大学が休みだったが、仕事をしているわけでも、サークル活動に勤しんでいるわけでもない暁は、時間を持て余している。来週の課題も全て済ませてしまっていたし、予習は前日で事足りる。
こういうとき以前なら、昼夜を問わず男に耽っていた。だが今はセシルがいる。あの渦のような快感を知ってしまった今、他の男になど、考えられなかった。
することがないので、仕方なしに仕事をするセシルをぼうっと眺めて過ごすことにした。
セシルは今日もサイドボードに据えられたタイプライターで文書を打ち出していく。相変わらず暁には分からない単語が羅列されている。
「結構英語は理解しているつもりだけど、この文の意味は全然分からない」
サイドボードの上だけでは飽き足らず、床にまでばさばさと散らばっている紙を一枚拾い上げて眺める。基本的な構文は分かるが、単語そのものに見覚えがないものばかりだ。
「学術論文だからね。アキラは文系だろう? 物理の論文は分からなくても仕方ないんじゃないかな」
なるほど、と頷きかけたところで何かが引っかかる。暁は己の大学での専攻をセシルに話しただろうか。
「今はフランス語の論文を英語に訳しているところさ。逆に英文を多国語に直すこともある」
「セシルはどのくらいの国の言葉を話せるの?」
「今は日本語もいけるよ。『お目にかけようか』?」
はっきりとした日本語だった。目をぱちぱちしばたかせている暁に、セシルはふ、と笑ってみせる。この笑顔が目に毒だ。
「伴侶の血をすすれば相手のことが大体わかる。フランス語を話す者の血を呑めばフランス語を。君の血を呑めば日本語を、私は身に着ける」
その言葉にはなるほど、とは頷けなかった。血を呑めば大体のことが分かると言った。ならば、暁のことも既に「大体は」知っているということになる。
憮然とした顔で黙り込んだ暁に対し、セシルはなおも笑ってみせる。言いたいことを察しているに違いない。タイプライターを打つ手を止めて、椅子ごと振り返った。
「そうさ暁。君についても私は大体のことは分かっている。だから君が寝ている間に、十六番通りの君のアパートメントに行って荷物も持ってきた。君が大学で心理学を専攻していることも知っている。それに、この街でどれだけの男に抱かれたのかも」
「……」
「君が君がこの国にきてからのこと、母国での暮らし。色々なものが見えたけど、ひとつだけどうしても開かない扉があった」
セシルが椅子から立ち上がったために、窓からの陽光が遮られて影が差す。暁はセシルの細い影にすっぽりと収まってしまっていた。
「君は心に固く鍵をしているんだね、アキラ」
そのときセシルがどんな顔をしていたのかは逆光で分からない。だがきっと、その鍵をいつかこじ開けてやる、という征服者の顔に違いないと、暁は推測した。
「アキラ・アンジョウ?」
フルネームで自らの名を呼ばれ、暁は足を止めて振り向いた。授業と授業の合間の時間、大学の薄暗い廊下は人でごった返している。だが自分を呼び止めた人物にはすぐに検討がついた。
「リーヴス先生」
深層心理学の助教授であるセオドア・リーヴスは暁の指導教官でもある。年は五十に届くか届かないかというくらいだが、完成された男性の貫禄と活動的な若々しさを兼ね備えた紳士である。短く刈り込まれたグレイの髪がセシルを思い出させた。
「何でしょう」
「君、先週の演習を欠席したじゃないか」
そういえば。その日の前日に、ある投資家の男に手酷く抱かれて、一日中ベッドの上から動けなかったのだった。誰彼構わず抱かれていた自分は、もう遠い過去の話のようだった。
「この後予定は?」
「四限にラテン語の授業が。それまでは空いています」
「ふむ。一時間以上はあるね。来なさい、補講を行う」
面倒ではあるが補講と言われては従わないわけにはいかない。彼の言わんとするところなど理解してはいたけれど、暁は黙ってその背に従い、リーヴスの研究室に向かった。
「先週もこのように享楽に耽っていて、演習をさぼったのかね? 悪い子だ、アンジョウ」
「あ、はぁ、ん」
男の乾いた手が滑らかな胸板を這う。胸の飾りを擦られ、呼応するように内部にある男のものを数度締め付けた。
カーテンを閉め切り、鍵をかけた研究室の大きな執務机の上で、暁は男に背後から貫かれていた。書物やら紙切れやらが積まれた幅広の机の僅かな隙間に上半身をうつ伏せ、腰から下は宙にぶら下がっている。暁の身長では爪先がかろうじて床に届くかどうかといったところだ。そのような苦しい体勢で両腕を背後でひとまとめに縛り上げられ、極めて緩やかな速度で欲望を打ち付けられる。その速度を殺した刺激が、余計に劣情を煽った。
「それとも私の気を引きたくてわざとやっているのか?」
「あ、ひィっ」
突然ぐっと奥深くねじ込まれる。体と机の間に挟まれて苦しそうにしている暁の自身が切なげにとろりと蜜をこぼした。
「本当に君は男と見れば見境がないな」
「は、ぁ、先生、あっ」
セシルから与えられる快楽が桁違いすぎて他の男ではもう感じないかと思っていたが、そうでもないらしい。暁の内部は与えられる刺激を快楽に変換し、貪欲に男を食んでいる。小さな雄芯はそれを歓ぶように涙を流し、解放のときを今か今かと待ち構えていた。
「はじめ君を見たときは、東洋人とはなんて華憐で美しく、そして勤勉なのだろうと期待していたのに、このような浅ましく淫らな顔を隠していたなんて、恐ろしい学生だ、君は」
「ぁ、あン……、いやらしい、のは、お嫌いですか、ぁ、先生」
「まさか」
にやりと笑った男は一層激しく熱芯を打ち付ける。暁は痴態も声も包み隠さず晒し、余すところなく男の欲を味わい尽くした。
古ぼけたレンガ造りのアパートに帰る頃には日が傾きかけていた。この国の緯度の高さには未だに慣れない。空は黄昏と言って差し支えのない橙と紫の層をなしているのに、時刻はもう夜中なのだ。日本ではこの時間にはもう夕飯を済ませ、暗い部屋で灯りをともしているというのに。
黒い金属製のドアを開ければ、ふわりとトマトの香りがした。セシルが夕飯を作っているらしい。
「ただいま」
玄関先で靴を内履きに履き替えていると、片手に何やら煮込み料理らしき器を持ったセシルが出迎える。夜の冷気で顔を赤くした暁を見て微笑みかけた顔は、一瞬でその色を変える。
美しい形の褐色の瞳から光が消えて、暁はぞっとした。このように柔らかさを削ぎ落とした表情を見せるのは初めてだった。セシルはひく、と顔をこわ張らせると、汚いものを見るような残酷な声で呟く。
「……他の男の匂いがする」
ゴトンと白い陶器が足元に落ちた。熱を加えて液状になったトマトと馬鈴薯が床に広がる。器を投げ捨てたセシルは暁の細い腕を掴むと、強い力で部屋の奥へと連れていく。
「セシル、ちょっと待って、あっ」
そのまま部屋の中央のベッドではなく、その脇の床に転がされる。漆黒のタイルの床はひどく冷たかった。
「悪い子だね、アキラ」
「っ……」
剥ぎ取るように衣服が取り払われる。その白い背には、リーヴスのつけた赤い痕がいくつも散っていた。
「私というものがありながら別の男の精を貪るだなんて」
「だって、演習の単位が、」
「そういう君だから私をこんなに誘惑するのだけれど」
暁の言い分を聞かず、セシルはそのうなじに噛みついた。鋭い犬歯が、ずぶりと皮膚を破る。
「ひ、ぐぁっ」
ごぷりと鮮血が溢れ、暁は苦痛に喘いだ。ビクビクと全身が痙攣するが、覆いかぶさってきたセシルによって押さえつけられる。
「今宵の血は味わう気にもならないな。洗い流してやろう」
手酷い責め苦に遭った。それまで野菜を刻んでいたであろう料理包丁で何度も背を切りつけられた。その度に暁は涙と悲鳴を溢れさせたが、背後の美しい男は憐れむことも心を痛めることもなく、むしろ興奮した様子で暁の傷口に爪を突き立てた。
それでも空が更ける頃ようやく解放された暁の体には、ひとつも傷が残らない。本当にセシルのために血を流し続ける存在になったのだと、恐ろしく感じた。
「アキラ。覚えておいで」
「ふ、ぁ……」
体を仰向けに返され、舌を噛まれる。先ほどまでとは比べる術もないほどに小さな痛みが走った。
「快楽に溺れる君は美しい。精を貪る君はこの上なく蠱惑的だ。だけれど既に私の血を受けたからには、この血に混じるのは私だけでよい」
ほんの僅かに切れた舌に滲む血を舐め上げ、セシルはうっとりとした顔で笑う。暁は茫洋とした頭で、深く考えることもせず頷いた。
それから今度は優しく、セシルは暁を抱いた。リーヴスとは桁違いの快楽を与えられて溶けた頭の中で、暁はこれまで彼を抱いた男たちをひとりひとり記憶から消していった。
翌朝。大学内は相変わらず喧噪に満ちていたが、今朝は何だかその趣を異にしている。大袈裟な構えの正面玄関をくぐれば、学生への告示や事務連絡が張り出される掲示板の前に人だかりが出来ていた。注目の的になっているのは、高い位置に張り出された一枚の通知らしい。
鞄から眼鏡を取り出して内容に目を走らせ、その目を見開くことになる。
通知文の半分はいくつかの講義の臨時休講を伝えるものだった。そのほとんどが暁のとっている授業だった。補講は追って通知するとのことだった。
残り半分は、その講義を全て担当している助教授の訃報だった。
「急病ですって」
「昨日までご健在だったのに。痛ましいことだ」
「心臓でも悪かったのかしら」
「自宅の玄関先で倒れていたらしい……」
昨日この大学内で自分を抱いたセオドア・リーヴスが死んだ。その事実をどう受け止めたらよいのか、暁には分からなかった。
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