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 生命を終えた落葉が開いた本の上に舞い落ち、暁は頁を繰る手をはたと止めた。 (落葉。Fallen Leavesか)  さて「銀杏」は英語で何と言うのだったか、苦笑して、古ぼけた紙の上のそれを取り除けると、既に講義で何度も耳にした言葉が現れる。 「Libido(リビドー) 性の衝動としばしば解されるが、それはフロイトの解釈によるところが大きい。本来はイド、無意識を発端とする、あらゆる欲動を指す。リビドーによって人は衝動を覚え、社会と関わっていく。その対義語は、フロイトによれば死の欲動。性の対義語が死とは、何とも心を惹かれる研究テーマではないだろうか」  かつてこの言葉を耳元で解説した声が蘇る。そのあと彼は何と言ったのだったか。自分は何と答えたのだったか。 (……僕のせい、なのだろうか。)  膝の上に本を開いたまま、ぼんやりと物思いに耽る。秋の装いを深くした公園は、読書と落ち着くにはいささか寒すぎる。しかし昨夜セシルに手酷く切り刻まれ、穿たれた火照りの残る体には丁度良かった。  授業がほとんど休講になってしまい、時間を持て余したために、大学とアパートの間にある自然公園で過ごしていた。今日の講義で使うはずだった深層心理学の学術書を、読むともなく捲っているだけでもう一時間は経っていた。  かつてこの、フロイトのリビドーについて彼はベッドの中で語ってくれた。熱を残した声で「君のリビドーが向かう先には何があるのだろうね?」と耳元に吹き込み、暁をうっとりとさせた。 (僕のせいで、……セシルが殺したのだろうか)  まさか、と思う。思いたい。昨日の今日だ。それに、ただあれだけのことで。違う、と考えるほうが妥当だ。なのに可能性を否定しきれない自分がいることを、暁は自覚していた。  セシルの美しい笑みを思い出す。ひどく心を惑わせる魅惑的なその表情は、しかし一切の感情を持たない。あくまで柔らかい笑みなのに、その温度はどこまでも冷たいのだ。  暁は、ぶる、と身震いした。さすがに風に当たりすぎたかもしれない。本を閉じて帆布の鞄に仕舞い込み、座っていたベンチから立ち上がる。ズボンの汚れを払っていると、公園内を横切る石畳の通路を通る者があった。閑散とした秋の公園に自分以外の物好きが、と思い見ていれば、向こうもこちらに目をくれる。灰黄色の外套に身を包んだその人物は、知っている顔だった。 「……アキかい? 奇遇だな」  以前何度か相手をした、文筆業をしているだとかいう男だった。年の頃は三十半ばで、見た目はそう悪くないのだが過ぎた嗜虐趣味があり、少しずつ遠ざけていた相手だった。もはや名前も思い出せない。 「ご無沙汰しています」 「本当に久しいな。どうした、こんなに体を冷やして」  歩み寄ってくると、暁の白磁の手に軽々しく触れる。欧州人のこういう気軽さは暁には受け入れがたい。やんわりと解こうとするが、却ってしっかりと握りこまれてしまう。 「アキは学生だったか。今は時間があるのかい? 良ければどこか温かいところで茶でもしようじゃないか」 「いえ、もう帰るところでしたので」  ならばと力を込めて手を引き抜くが、今度は腰に手を回され、抱き込まれてしまった。こうなっては華奢で小柄な暁は到底逃げ出せない。 「つれないことを言うなよ。君の蠱惑的な体が恋しいんだ」  男の熱い吐息がこめかみにかかって、柔らかい黒髪をそよがせる。ぞわりと肌が粟だった。この体を流れる血潮が男を拒絶する。暁は小綺麗な顔に嫌悪を隠さずに乗せて、男の体を両腕で押し返す。 「貴方の相手をするつもりはない」 「アキ、いけない子だ。そうやって嫌がれば余計に私を煽るとわかってやっているのだろう」  耳の裏をそろりと舌でなぞられ、大きな掌で尻を撫でられる。この公園に人気がないことを心底呪った。  昨日の今日だ。許されるわけがない。またあんな目に遭うのは御免だった。それに、暁に手を出したとあってはこの男もリーヴス助教授と同じ目に遭うかもしれない。なればこそ暁は本気で抵抗するのだが、元より西欧人より華奢な東洋人の中でも極めてか細い暁の体では、しかと抱き寄せてくる大柄な男を押し返すことは難しい。 「本当に、離してください……っ」 「口ではそんなことを言って、褥では貪欲に男を求めるくせに。なに、痛いことはしないよ」 「嘘をつけ、この下衆が……っ」  最後の一言は彼に分からない日本語で吐き捨てて、思い切り肘を相手の脾腹に打ち込む。うっ、とうめき声がして締め付ける力が緩む。その隙に全力で相手の体を押しやって拘束から脱した。ベンチに荷物を置いたのもそのままに急いで駆け出す。だが程なくして追い付かれ、背後から手を取られてしまった。 「い、やだっ」 「聞き分けのない子はお仕置きだよ、アキ」  強い力で引かれて、落葉が敷き詰められた石畳に倒れ込む。手を擦り剝いたがどうせ数秒で治る。それよりも、上から抑え込んでくる男をどうにかするほうが肝要だ。この野外で無体を働くとは思えないが、このままでは力ずくでどこかに連れ込まれてしまう。声を上げようかとするが、このように広く人影のない公園内では誰にも届きはしないだろう。  暁は悔しくて歯噛みした。元はと言えば自分の撒いた種なのだ。色に狂い、誰彼構わず床に誘い、堕落させてきた自分が。 「さあ。大人しくついてきなさい」 「い、やだ……っ、助けて、セシ……っ」  ガン、と鈍い音がして、男の体躯が横に傾いだ。のしかかっていた重みが遠ざかっていき開けた暁の視界に、学生鞄を両手に握りしめた学友の姿が映った。どうやらあれで殴りつけたらしい、辞書や様々な文献が入っているのでさぞ優秀な鈍器となったろう。 「僕の学友に何をされているのです。人を呼びますよ」 「ぐ、貴様ら……ただで済むと思うなよ」  何の威嚇にもならない捨て台詞を残して、男は足早に立ち去っていった。静かな公園の中、冷えた石畳に座り込む暁と、息を切らした学友だけが残される。 「……クラウス、ありがとう。でもどうして?」  手を借りて立ち上がる。綿のズボンにくっついた落葉を払いながら、内心分かっていて問いかける。大学からもやや離れたこのように寂れた公園で、出会ったことが偶然だとは思えない。 「アキラ、君を探していて」 「……君もか」  嘲った笑みが頬に乗るのを暁は隠しはしなかった。  なぜ。この街には男も女もたくさんいて、僅かな金を握らせれば簡単に相手をしてくれる手軽な存在も少なくはないのに、なぜこの男たちは自分に執着するのだろう。優れた容姿も、教養も、金も、居場所も持たぬこの空虚な自分を。 「違う、あの男と一緒にしないで。僕は純粋に君を」 「やめてくれないか」  侮蔑を込めて、眼鏡の奥の碧眼を睨みつける。初めて見せた剣呑な表情に男は一瞬たじろいだが、すぐに開き直って暁の肩に己の両手を載せた。 「アキラ。率直に聞こう。君はリーヴス助教授に体を許したことがあるよね?」  なぜ、それを。驚いたのは一瞬だ。だから何だというふてぶてしい心がすぐに沸いてくる。 「ああ。何度もあるさ」 「ッ君は……、まあいい、いいさ。その助教授が突然亡くなった。彼だけじゃない、君の体を弄んだ男が死んだのは」  言われた言葉の意味を理解し、顔が蒼褪めた。まさか。この男はどこまで知っているというのだろう。暁は学校の中でかぶっている、真面目で素朴な留学生の影を破り捨て、素の表情で学友を見た。厭世的で妖艶な、暁本来の顔である。纏う空気が一変した彼にクラウスは目を瞠り、しかしむしろ興奮した様子で畳みかける。 「君の周囲には死の影が多すぎる」 「何が言いたいんだい」 「こっちが聞きたいよ。どういうことなんだい?」 「さあ? 僕に疫病神でも憑いてるんじゃないかな」 「ヤク……? ともかく、僕は君が心配なんだ、アキラ。危ないことからは身を引いてくれ。僕が……守ってあげるよ」  そう言って、暁の細い体を抱き寄せる。暁の黒檀の瞳から、す、と光が消えた。  違うのだ。暁が求めている腕は、体は、これではない。自然と嘲笑が顔に乗った。 「嘘をつけ。君は僕を抱きたいだけだろう」 「っ……!」  核心を突く一言を言うとクラウスは顔を歪ませ、暁の後頭部を乱暴につかみ、強引に口づけをした。男の乾いた唇に、暁は何も感じなかった。これまでは、行為の最中に貫かれたまま口づけを交わすのは堪らなかった。相手の口中を蹂躙し、またはこちらを蹂躙され、体だけではなく意識さえもひとつに溶け合うようなあの感覚は、何にも代えがたい悦楽を暁に与えてくれた。しかしこの口づけはあまりに無味だ。暁が焦がれる甘い口づけは、これではない。彼の愛しい唇も、腕も、もうあの人以外にないのだ。  クラウスは一度唇を話すと、吸い込まれそうな漆黒の瞳を近い距離で見つめながら、言葉を紡ぐ。 「ああ、そうさ。君の体は麻薬だ、アキラ。一度味わってしまうとやめられないんだ。僕はこんなにも君を求めて止まらない……っ」  再び噛みつかれる。赤々とした唇を割って入ってきた舌に、遠慮なく噛みついた。 「ッ!」  痛みに飛び上がった体を思い切り突き飛ばす。無様に石畳に尻餅をついた男を、これ以上ない嘲りの目で見下ろす。それはこれまで学友の前で暁が見せたどの顔よりも、残酷なまでに美しい表情だった。 「君みたいにこそこそと嗅ぎまわる奴が僕は一番嫌いだよ。二度と僕に近づくな、気色が悪い」  包み隠さず罵声を浴びせ、その場を後にした。ねっとりとした男の視線が背に纏わりついていることには気づいていた。早く、早く彼のあの甘い体に包まれたい。帰路を辿る暁の体は、既に昂っていた。 「おかえり」  滑らかな日本語で迎えられて暁は鼻白んだ。そんな反応を期待していたかのように、セシルは悪戯めいた笑みを浮かべている。今日はタイプライターに向かっているでもなく、夕飯の支度をしているでもなく――それはそうだ、大学が休講になったゆえに帰宅したがまだ時刻は昼過ぎである――、窓辺に凭れてゆったりと紅茶をすすっていた。何をしていても本当に絵になる男だ。 「……ただい、ま」  その言葉を発したのは何年ぶりだろうか。この国に来て以来初めて交わした母国語での会話に、喉の奥がひりついた。 「もう君と同じ水準で話せるよ。ならば英語よりも君が話しやすいだろう」 「そうかな、……うん、そうだね」  血を飲む度に、セシルの中で暁の情報は濃くなっていくという。それは自分が丸ごと喰われてセシルと完全に溶け合うようで魅惑的でもあり、今ここに存在している自分が空虚なものになってしまうような恐怖でもあった。  つい顔を覗かせる逃げ腰の自分を払拭するように、明るい顔を装って話題を変えた。 「フランス語が話せるってことは、以前はフランス人の伴侶がいたのかい」  それは以前から抱いていた疑問だった。伴侶はたった一人しかいないというようなことを言っていたのに、矛盾していると思ったのだ。決して嫉妬や独占欲などの浅ましい心情からではない。単に論述的に疑問だったのだ。  セシルは空になったカップをキッチンに戻しながら、ああ、と何でもない風に応えた。 「そうだね。フランス人ではなくスイスからの移民だったが、彼がフランス語とドイツ語を解したために私もそれらを会得した。もっともそもそも教養程度には学んでいたけどね」  以前、暁ではない伴侶がいた。そのことはいくつかの事実を孕んでいる。腹の底に重たいものが溜まるのを感じた。  続きを聞くのは少し怖い気がする。しかし正体が見えないものに怯えるよりは良い。弱気に揺れる心を奮い立たせ、暁は突っ立ったまま問いを重ねた。 「伴侶はひとりでなくてもいいんだね」 「今は暁ひとりさ」 「……どうしていなくなった、の」  セシルはキッチンから戻ってくると、そのまま流れるように突っ立った暁の腰を抱き、ベッドへと促した。スツールひとつ以外はソファも椅子も座るところがないこの部屋では、何もせずともベッドの上で過ごすことが大半だった。  足の裏は床についたまま、仰向けに寝かされる。その上に覆いかぶさってきたセシルの目に、淫靡な色はない。単なる戯れだ。 「可愛いね。妬いているのかい?」 「そんなんじゃない。単に気になるんだ。だってそう死にはしない体なのに、なぜいなくなったのか」 「簡単なことさ。壊れてしまったんだ」  そんなことを何でもないような顔で言う。先ほどまで口にしていた紅茶の種類を尋ねたら、アールグレイだよと答えるような、そんな口調だ。 「人の身でなくなった己に耐えられなかったり、血と苦痛を求める私に耐えられなかった。スイスの彼だけではない、何人も壊れてしまった」  少しだけ分かる気がする。セシルの孕んでいる狂気は底知れない。彼の褐色の瞳を覗き込むと、どこまでも続く闇の深淵を覗いているような気になる。深淵を覗き込むときまた、深淵もおまえを覗いているのだ。大学で何度も諳んじたニーチェの言葉が脳裏に浮かぶ。 「……僕もいつか壊されてしまうの」  聞いてよい質問だったのかは分からない。セシルは笑みを収め、無表情で暁を見据えてくる。コクリ、と暁の細い喉が小さく鳴る。沈黙は長くはなかった。セシルは極めて押し殺した小さな声で囁く。 「君は今まで何人もいたどの伴侶とも違う。一番魅惑的で、浅ましく、憐れで、美しい。できれば壊したくはない。永遠に傍に置いておきたいと思っているよ」  それがセシルの本心かどうかは分からない。彼の語った言葉のどれだけの割合が真実なのかも分からない。だが、言葉のあとに降ってきた唇があまりに心地よくて、どうでもよくなってしまった。いつもこうして絆されてしまっている。  疑問は尽きない。疑念と言っても良い。暁はセシルについてあまりにも何も知らない。だが、今目の前にあるこの体があればそれで良いのだとも思う。快楽と苦痛を同じ割合で与えてくれるこの存在。それが今の暁の全てだ。  今この瞬間において、彼にとって暁が唯一で、暁にとっても彼が唯一ならば、それで良い。  服を剥いでゆく冷たい手に身を委ねる。首筋に立てられた歯を、甘んじて受け入れた。 「ついでにもうひとつ聞いて良いかい?」  血と精を搾り取られた脱力感から敷布に沈み込みながら、横で同じように横たわる男に体を寄せる。血を呑んだあとのセシルの体は火照っていて温かい。今は瞳も褐色ではなく血の色に輝いていた。光の加減ではなく、彼の精神状態によってその輝きを変えるらしい。今は興奮が冷めやらない状態ということだ。 「なんだい。言ってごらん」  なんて嘯いて暁の黒髪をさらりと梳く。その指があまりに優しくてむしろ笑えた。先程まで痛みにのたうち回る暁の四肢を押さえつけて、その血と苦痛に歪む顔を楽しんでいたくせに。 「僕の大学の先生を殺したかい」 「ああ、やったね」  あまりにも普通に返されて二の句が継げない。今日の夕飯はビーフシチューかな、そうだよ、というくらいのやり取りだった。やはりか、と暁は眉間に皺を寄せる。 「なぜ」 「なぜって。私の所有物に手を出すからに決まっているじゃないか」 「そこまでしなくても」  つい咎めるような口調になる。セシルはむっとしたように美しい顔をしかめ、唇をほんの少し突き出した。彫刻のように美しい顔なのに、そしていつも余裕を含んだ笑みを浮かべているくせにそんな表情もするのかと、おかしくなって笑ってしまった。 「君に咎められるとは思わなかったな」  自分を捨てた男を殺した君に、と続けられ、すうっと心が褪めていく。そうだ。自分だって同じだ。おまえなんか死んでしまえと思った、だから刺した。悪いことだとは露とも思わなかったし、今なお微塵も悔いていない。こんな自分にセシルを詰る権利は、ない。 「そうだね。あなたがいればいい、他はどうなっても構わないな」  言ってその広い胸に潜り込む。ゆったりと響く鼓動が心地よい。この心臓を自分の血が動かしているのだと思うと愛おしくて、中央の窪みを何度も唇で啄んだ。  戯れてくる暁の柔らかい黒髪を撫でながら、セシルはうっとりと目を細めた。 「君が私に心を開きつつあるのが分かる。さっき血を呑んだときに、頑なだった君の扉がひとつ開いていたよ」  そういえば以前、暁の全てはまだ見えないのだと言っていた。おもに、この国に渡ってきた動機とその背景について。そのあたりの記憶を掘り返されることは暁にとって好ましくはない。だがそれをセシルが感じ取ったということは、彼になら許せるという心の表れなのだろうか。自分のことなのに分からないものだな、と、心理学を専攻しているはずの暁は苦笑した。 「君は純粋な日本人ではないのだね、暁」  そんなことか、と鼻を鳴らす。それはもっと早く気づいていたと思っていた。 「そうさ。僕にはこの国の血が半分流れている」  黒髪黒目を引き継いだために外見では分からないゆえ、これまで指摘されたことはなかった。そのほうが都合が良かった。出自についてあれこれ探られることは好ましくない。 「記憶の中の母親は君にそっくりな美しい漆黒の髪をしていた。ならば父だね」  父、という言葉の響きだけで心がざわめく。母国語で発せられたそれは、英語で聞くfatherよりも深く暁の胸に沈み込んでいく。 「君は生き別れた父を探してこの国に来たのかい?」 「……別にそういうわけでもないさ」  狭い国ではない。所在など分からない。見つかるとは思っていなかった。だが、母の遺した莫大な額を見たとき、渡欧をすぐに決意したことに、何も関与していないはずはない。  ただこの国に来られれば良かった気もする。自分の血の半分の源泉となる国を見ておきたかった、それだけかもしれない。しかしどこかで期待していたのかもしれない。否定はできなかったが、暁にはこのあたりが判然としない。この頃の自分のことはよく思い出せないのだ。色に溺れ、頭も体も正常ではなくなってしまって、感傷的なことや人として全うなことが考えられなくなってしまった。 「父親に会えたらどうしたい」  今日のセシルは随分しゃべる。それも暁にとってはどうでもいいことばかりだ。今このふたつの身があれば、満足なのに。 「分からないよ。そもそも会いたいのかも分からない」  ぶっきらぼうに言うと、体を伸ばしてセシルの薄い唇をついばむ。舌で下唇をなぞれば、上唇を噛まれて返された。  そんな風に戯れながら、合間でひそひそと言葉を交わす。気づけば窓の外は薄紫に染まりつつある。ほんのりと空腹を感じたが、今はこうしてセシルの熱い身体に包まれていたい。 「私だったら君の父を見つけられるかもしれないよ」 「え? 僕ですらファーストネームしか知らないのに」  思いがけなさすぎて、セシルの舌にちょっかいをかけていたのが止まってしまう。意図を尋ねようと覗き込んだ男の瞳は、今はもう褐色に戻っていた。 「日本語に血筋とか血族という言葉があるように、血は親から子に受け継がれている。君の血の半分は父親のものなんだよ、暁」  つまり、暁の血を味わっているセシルにはいずれ父親のことも分かるかもしれないということだ。何も包み隠せないのだな、と苦笑いするほかない。 「君がその頑なな扉を開いてくれればだがね。体はこんなに素直に開いてくれるのに、どうして心はそんなに意固地なんだい」 「っ……」  掛布の中で悪戯な手が脚を裏側から撫で上げ、秘奥をかすめていく。先程まで男の熱を受け入れていたそこは未だ熟れていて、触れるか触れないかの際どい戯れにも切なく窄まった。 「何度その血を味わえば君の全てを浚えるのだろう」  細い指が内側に潜り込んでくる。しっとりと濡れそぼったそこは、何の抵抗もなく侵入者を呑み込んだ。あくまで優しく内側の襞をなぞられて、息が上がる。消えかかっていた熱が再び火勢を増していく。 「……っふ、あ……」  指に応えるように、暁も目の前にある男の胸の頂きを舌で愛撫した。先端で煽ってやれば、硬さを増すのが愛おしい。  褥の上という狭い世界。暁にはセシルしかなく、セシルにも暁しかない。互いが互いを高め合い、生かし合っているという甘美で醜い依存。これからこの時間が永遠に続くのだろうか。甘い蜜月と背中合わせの痛みも、また。 「ん、あ……もうひとつ、尋ねていいかい」 「ふふ、我儘な子だね」  笑うセシルの瞳が赤さを増す。密着した腰のあたりに、熱いものを感じてはいた。どこから沸いてくるというのだろう、この、無限に相手を求める底なしの情欲は。 「僕の血を呑むとき、わざと痛くしているよね?」  口は笑みの形を作りつつも非難がましい目で言ってやれば、男は酷く美しく笑んだ。酷薄、という言葉が恐ろしいまでに似合う。 「もちろんさ。君は苦痛に喘ぐ姿が一番美しいよ」  最低。下衆。罵倒はその唇に堰き止められた。

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