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コク、コクとセシルの喉が小さく鳴っている。その音をすぐ耳元で聴きながら、暁は漆黒の天井を見上げた。セシルが美味しそうに飲み下しているのは当然暁の血液である。ベッドに胡坐をかいて座ったセシルの上に向かい合ってまたがり、熱くそそり立ったそれに貫かれながら血を捧げていた。
体内から血が奪われていくのに意識が薄くなるが、ドクドクと体内で脈打つそれが気を飛ばすのを許しはしない。痛みと快感と、苦痛と多幸と。相反するものを同時に与えられ混乱した体は、しかし興奮に熱くなっていた。
「あ、ぁあ、セ、シル……」
がくん、と暁の首がのけぞる。だらしなく開かれたままの唇は彼自身の唾液に濡れていた。それまでむしゃぶりついていた首の傷口をセシルが舌で舐め上げれば、それはすぐに塞がっていく。ミミズが這いよるように醜くうぞうぞと蠢く肉の感覚は、何度経験しても気味が悪い。
「ご馳走様。暁。今宵の君は一層いやらしく甘美だね」
脱力しきった体を上下に激しく揺すられる。ほとんど意識を飛ばしかけているのに余すところなく快楽を拾う体が呪わしかった。
暁の血を得て一層熱く昂ったセシルのものが、中で激しく弾ける。血液よりも濃いその体液に内部から犯されながら、暁はセシルの体に凭れる形で、今度こそ気を失った。
「君の父上の氏名が分かったよ」
まだ薄暗い薄明時に目を覚ますと、隣で暁の髪を撫でていたセシルが起き抜けにそんなことを言う。今聞きたいのはそんな言葉ではないのに。返事も制止もせず、ぼんやりとした目で美しい形の褐色の瞳を見つめていた。
「オズワルド・オーウェンというらしい」
オズワルド。母はいつも親しみを込めてオズ、と呼んでいた。初めて聞いた自分の父らしい人のフルネームに、抱いた感情の名は何だったろうか。胸がざわざわする。
「別に……興味はないな」
わざと不機嫌さを滲ませた声で言って、愛しい人の肩口に顔を寄せた。セシルの体は未だ火照りを収めず、欧州の冷たい朝の空気の中ではうっとりするほど温かい。この存在があれば他には何も要らないと思うのに、脳内では顔も知らぬ父の名前が膨れ上がり、いつまでも眠らせようとしなかった。
吐き出した息が白い。母国よりはるかに寒さの厳しい、この国の冬がやって来ようとしている。寒いのは苦手だが、この国の冬は美しい。日本のように雨露を含んだ重たい雪ではなく、羽毛のように柔らかく軽い雪が舞い散り、街は白銀に染められる。あらゆるものを覆い隠して全てを均一の白にしてしまう。その無慈悲さと眩さが気に入っていた。
しかしこう寒いと活動に支障をきたす。人の少ない授業中の大学構内を早足で、目的の場所へ向かった。亡くなったリーヴス助教授の研究室に所属していた暁たちには、彼の研究室の整理が命じられている。初めは何で自分たちが、と憤っていた学生たちだが、市販されているものであれば文献等は持ち帰っても良いと知ると、俄然意欲を見せていた。暁は、ただ周囲の目を気にして最低限手伝うのみであるが。
文系の研究室が並ぶ棟の入り口に差し掛かったとき、突然背後から肩を掴まれた。驚きはするが意外ではない。いつか来るだろうと思っていた。振り返れば、二日前に閑散とした公園で突き倒した男が息を切らせている。
「アキラ、話がしたい」
「二度と近寄るなと言ったはずだけれど」
侮蔑を込めた眼差しで見据えるが、クラウスは堪えた様子もなく暁の肩を掴む手に力を込めた。
「色々と勝手に調べたことは謝るよ。だけれど僕は、男として君を求める前に、学友として君が心配なんだ。何か危ないことに巻き込まれてやしないかと」
眼鏡の奥の瞳に隠し切れない情欲を湛えておいてぬけぬけと。自然と嘲笑が口の端に浮かんだ。
(鬱陶しいな。いっそ殺してしまうか、この男も)
酷薄な考えが浮かぶが、その後の処理が面倒だ。前も遺体の処理や警察に嗅ぎつけられたらということを考えたら何もかもが面倒になってしまい、馬鹿らしい、死んだほうが楽だ、という結論に至ってしまったほどだ。この男の粘着的な性質は心底厄介だが、手段は穏便なほうが良い。
「生憎だがクラウス、僕は君を必要としていない」
いつも雄弁な学友が、ぐ、と言葉に詰まったのが分かった。この国の人も暁の祖国の人も、遠まわしな表現を好み、直接的に事実を突きつける論法には弱い。だからこそ響く。
「そもそも君なんて無数にいる僕の遊び相手のひとりでしかないんだよ?」
わざと嘲るようにいやらしく笑う。激昂して頬でも張ってくれれば良かった。それで終わりにできた。なのに男は、その暁の物言いと表情にかえって劣情を煽られたようだった。肉食獣のように鋭く細い瞳が熱を灯す。
「……ならばどうすれば君を僕だけのものにできる?」
腹を抱えて笑い出したい気分だった。
「そんなことにはならないよ。僕は誰のものにもならない」
なぜならもうこの身も心も血も、全てセシルのものだから。その事実は胸の中だけで告げた。
未だ強い瞳でこちらを見据える瞳を振り切り、肩に置かれた手を払って踵を返した。しばらくは大学にも寄り付かないほうがいいかもしれない。
「アンジョウ、もう遅くなってきたから終わろう。日本人は本当によく働くな」
先輩に声をかけられて、暁は学生から提出された論文と思しき紙片をまとめていた手を止めた。窓の外は未だ白んでいるが、壁に掛けられた古物品の時計は七時を指している。もう遅い時間だということを認識していなかったために続けていたにすぎない。本当に慣れない。
数人残っていた研究生たちと挨拶を交わし、研究室のある棟を後にする。昼間と変わらない明るさの中だが、空気は一変している。突き刺すような寒さに身を震わせ、暁は外套の前を掻き合わせた。この外套も古くなってきたが、この国では暁の背丈に合うものがなかなか手に入らない。大事に着なくては、とつらつら考えながら歩いていれば、前方から女学生たちが数人歩いてくる。狭い舗道ではないが端に寄って幅を開けるが、彼女たちは暁の進路を塞ぐように立ちはだかった。
「……何か」
女性といえど、暁と大して背丈が変わらない。彼女らが大きいのもあるが、暁が小柄なのだ。そのことに若干思うところがないでもないが、この国では仕方がない。ため息とともに言葉を吐き出せば、三人いる女学生のうち、中央にいた赤髪の女性が口を開く。
「留学生のアキラ・アンジョウって貴方ね」
「そうだけれど」
「皆の憧れであるクラウスくんにあんな態度を取るなんて何を考えているの?」
ああ、そういうことか。侮蔑の色がじわりと胸の内に広がる。堰を切ったようにまくし立てる彼女らの甲高い声を、暁は黙って聞いていた。
「落ち込んでいたわ、彼」
「彼は異国で肩身の狭い思いをしているだろう貴方を気遣ってくれているのに、その厚意を無碍にするなんて」
「少し身の程を弁えたらいかがかしら」
容姿端麗。才色兼備。家柄もよく紳士然とした彼に惹かれる女性は少なくない。しかしあのお綺麗な顔の下には、暁に対する黒く澱んだ劣情を隠しているのだ。それを思えば、彼女らが哀れで滑稽で堪らない。そんなことを考えていたら、自然と嘲りが顔に出ていたらしい。口許に笑みを刷いた暁を見、女学生らはより一層激昂する。
「ちょっと貴方、聞いていらっしゃるの?」
「クラウス・オーウェンといえばこの学内では知らない者のいない優秀な人なのよ。それを貴方は……」
はたと暁は薄笑いを収める。今、何かが引っかかった。
「今、何て?」
思わず聞き返す。ようやく口を利いた暁に満足したのか、最初に口火を切った赤毛の女学生が勝ち誇った顔で言う。
「クラウスは学内では知らない人がいないくらい優秀で完璧な人なのよ、それを」
「違う、彼の姓はオーウェンというのか?」
は、と三人の目が丸くなる。暁は学内ではクラウスと一緒のことが多かった。暁本人は好んで一緒にいたわけではないが、向こうが寄ってくるのだ。周囲から見ればさぞ親しい友人関係に見えただろう。それをフルネームも知らぬ仲とは思わなかったらしい。目を丸くして、「……そうだけど」と怒気を忘れた声で返す。
「そんな、……いや、まさかね」
口の中でつぶやき、ぽかんとしている三人の横をすり抜けた。
そんな偶然あってたまるものか。日本にだって、安生 という姓は暁ひとりではない。馬鹿な考えに走った自分を笑い、暁は大学を後にした。
今日はくだらない些事にたくさん煩わされた。この苛立ちを早くセシルに払拭してもらわなくてはならない。
「ただい……何をしているの」
暁が帰宅する頃には、セシルはいつも夕飯の支度をしているか、窓際でタイプライターに向かっているかのどちらかだった。しかし今日はそのどちらでもない。壁と扉が一体化していて見分けづらいクローゼットを大きく開け、衣服やら何やらをトランクに詰め込んでいたのである。
「やあ暁。私は今日から数日出掛けるよ」
まるで旅支度ではないか、と思ったら本当に旅支度だった。数日、聞いていない。靴を替えるのも忘れ、綺麗に皺を伸ばされたシャツをハンガーから外す腕に慌てて縋りついた。
「どこに、どうして、何日?」
必死の形相で縋りついてくる暁を見て、セシルはいたく満足げに笑みを浮かべた。暁が完全に自分に溺れていることを悦んでいるのだ。悔しいが事実なので仕方がない。
「先日翻訳を手掛けた本の著者に招かれてね。北部の町で会合があるんだ」
告げられた町の名前にはかすかに聞き覚えがある。小さな町だが自然豊かで生態系に恵まれ、観光でも産業でも名を馳せている地方だ。しかしそれらは問題ではない。問題なのは、その町へ行くには鉄道で数時間かかり、日帰りができる距離ではないということだ。
「いい子で待っていられるかい」
子どもをあやすように頭に手を置かれ、暁は泣きたくなった。
「いやだ、数日も貴方から離れるなんて。もう僕は貴方の体でないと満足できない、分かっているくせに」
聞き分けがないとは自覚している。何も一か月とか言っているわけではないのだ。だけれどこれから数日その体に触れることも触れられることもないのだと思うと、気が狂いそうになる。自らを慰める術などとうに忘れてしまった。
セシルは堪らないといった様子でより笑みを深くする。本当に最低な嗜好をしている。だがその男にこんなにも溺れている自分もどうかしているのだと、分かり切ってはいた。
「行かないで。僕を置いていかないで」
冷たい腕にしかとしがみついて乞えば、思いがけない一言が頭上から降ってきた。
「なら一緒に来るかい?」
「え?」
「私は構わないよ」
穏やかな口調でしれっと言われ、頭に血が昇った。はじめからそのつもりだったのだ。なのに暁の反応が見たくて、故意に置いていくような色合いを見せた。本当に底意地が悪い。まんまと策略に嵌ってしまった自分が悔しくて歯噛みした。
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