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大学へ赴くのは気が進まなかった。クラウスのことである。
本当に厄介な男に手を出してしまった自分の頬を思い切り打ちたい。半年前の暁は、余りにも出来すぎた優等生然としているその済ました顔の裏側を、見てみたくなったのだ。甘い言葉で誘った暁を、彼は面白いくらい必死に抱いた。それがおかしくて滑稽で何度か誘った。まさか彼がここまで自分に溺れるなどは思いもしなかった。
気は進まないが、やらなくてはならないことがふたつある。仕方なしに外套を着こみ、鞄を肩に引っ提げて通い慣れた場所へ向かった。セシルの遠出に付き合い四日間も休んでしまった後ろめたさもあり、なるべく人と遭わぬよう講義が行われている時間を選んだ。その甲斐あって目的の場所、亡くなった助教授の研究室へは誰にも会わずにたどり着くことができた。
曇った真鍮のノブを捻るとガチリと硬い感触が手に返る。鍵がかかっているのだ。今日はまだ誰も来ていないらしい。研究室に所属する生徒に与えられている鍵をポケットから取り出し、開錠する。古ぼけた木製の扉を開けば埃の匂いがした。
遺品は既に半分ほどに減っている。四つある大きな本棚にはもう僅かしか書物が残っていない。大半は大学の図書館に寄付し、残ったものは研究生で分け合うか、古書店に売って研究費の足しにするらしい。助教授の私物が主に収められていたチェストにももうほとんど物は残っていない。こちらは金目のものが多いゆえ、先輩たちが持ち帰ったのだろう。一方で雑多とした執務机はほとんど手が付けられていない。暁が、ここは僕が担当しますと言っておいたのが功を奏したのかもしれない。彼と自分との関係を仄めかすものが出でもしたら面倒だと思ったからだ。できれば自分で見つけて抹殺してしまいたい。
応接用のソファに鞄と外套を預け、腕まくりをして作業に臨んだ。
果たして、成果はあった。執務机の右面に作りつけられた引き出しの上から三番目。分類に困った品々を放り込んだのであろうと推察できる雑多なラインナップの中に、手記を見つけた。革表紙のそれを開いてみれば、日常の些事が誰へ宛てるでもなく綴られていた。その中に、暁に関する記述がいくつかあったのだ。
氏名こそ明確に述べてはいないが、読むものが読めば確実に暁だと分かる書き方だった。第一この研究室に東洋からの留学生は暁ひとりしかいない。
内容はおおよそ暁との逢瀬に言及するものだった。成人した男性であるにも関わらず少年のようなあの体は実に味わい深い、とか、往々にして反吐の出る内容だった。
他にその類のものがないか確認して、帆布の鞄に仕舞った。後で燃やしてしまおう。不自然ではない程度に片付けもしていくか、と再び執務机のほうに足を向けたとき、研究室のドアが静かに開いた。危なかった、あと少しで手記を手にしているところを見られるところだった。先輩の誰かだと思って振り返ったその予想は、しかし喜ばしくない方向に裏切られる。
後ろ手にドアを閉めたのは、この研究室に所属していないはずの金髪の男だった。舌打ちをしたくなった暁の耳に、カチリと小さな施錠音が届く。迂闊だった。誰もいない室内でひとり、鍵もかけずにいただなんて。
「やあ、アキラ」
薄笑いで告げられた挨拶には返事をしなかった。警戒した目で睨みつけながら後ずさるが、狭い室内だ。すぐに背中が机の角に触れた。
「四日も大学を休んで、いけない子じゃあないか」
いけない子だね、と笑ったセシルの声を思い出す。彼に言われたならばあんなにも胸の奥の劣情を震わせるのに、この男に言われても腹立たしさしか覚えない。
このような状況になるとは思いもしなかったが、彼に用があるのは間違いないのだ。暁は後ろ手に机の上を探りながら、勝気な笑みを顔に張り付けた。無論、虚栄である。
「丁度いい。君に用事があったんだ、クラウス」
「ほう、それは嬉しいね」
本当に嬉しそうに笑うので腹が立つ。隠さず舌打ちをしながらも、笑みは崩さない。腹を決めて、用件を話し出す。
「君は何かにつけ僕を追い回していたけれど、僕のほうでは君に興味などなかったから、肝心なことすら最近まで知らなかったのだけれど」
わざと挑発するような話し出しを選ぶが、相手のほうに動じた様子もない。少々肩透かしではあるが、同じ調子で続けた。
「君の姓はオーウェンというのかい?」
「そんなことか。ああ、僕のフルネームはクラウス・オーウェンだけれど。何だい、僕の家の持つ肩書や資産に君も今更目がくらんだのかい」
逆に嘲るように言われてしまう。やたらと恵まれた坊ちゃんだということは知っていたが、オーウェン家というのがどんな権威をもつのかについてはさして興味はない。それよりも。
肝要の問いを口にしようとすると、喉の奥がチクリとうずいた。一度深く息をして、相手の顔を真っすぐに見据えた。
「親戚筋にオズワルドという男性はいるかい」
セシルから告げられた暁の父の名前は、オズワルド・オーウェンといった。珍しい姓ではない。だが、クラウスの姓を聞いたときの胸のざわめきは、無視できるものではない。
どうか否定してくれと祈る暁の切望は、しかし、あっさりと手折られた。
「ああ、州の議員をしている叔父の名だ。しかし、どうして君がそれを」
膝から力が抜け、机の縁を掴んで耐えた。何ということだ。このまま消息など知らないままのほうがよかった。
泣き笑いのような顔で項垂れる暁の様子に、しかしクラウスは勘違いをしたようだった。顔が突然険しいものになり、ずかずかと詰め寄ってくる。そして暁の肩を両手で鷲掴みにすると小刻みに揺さぶった。
「まさか、叔父とも君は通い合っていたのか?」
「違う、そんなんじゃない」
否定する声は弱々しい。頭がくらくらするのは揺すぶられたからばかりではない。迫ってくる体を押し返そうとするが、肩を掴む力は強くなるばかりだ。男の強い指がギリリと皮膚に食い込んだ。
「やはり君を放っておいては駄目だ、アキラ、君は男から男へと飛び歩く蝶だ。翅を手折られてしまう前に虫籠に閉じ込めておかなくてはならない」
先日から鳥だの蝶だのと言われたい放題だ。自分は確固たる意志のあるひとりの人間だ、心酔するセシルならばともかく彼になど飼われてやるつもりはない。
「それとも、見知らぬ誰かに手折られるくらいなら今ここで、僕の手で翅を千切ってやろうか」
低く告げた男の目には、暗い情欲が湛えられていた。ゾクリと肌が粟立つ。まずい、と思ったときには遅かった。男は暁の肩から手を離すと、その両手を素早く暁の細い喉に宛がい、迷うことなく力を込めた。
「ぅ、グッ」
突然奪われた呼吸に脳が混乱する。この体内に流れるセシルの血のおかげで外部からの傷はこの生命を脅かさないが、窒息では死ねるのだろうか。そんなことを冷静に考えている余裕はない。活路を見出してせわしなく彷徨わす手に、固く冷たいものが触れた。先程後ろ手に見つけておいたものだ。迷わずそれを握って大きく振った。
「ぐあっ」
醜い悲鳴と小さな血飛沫をあげて、男の体が離れていく。急に流れ込んできた空気に暁は激しくむせた。手の中のそれを離さないように強く握りこむ。それは、鉛筆を削るための小刀だった。
滅茶苦茶に振ったのだが、見事に襲撃者の右肩を切り裂いていた。クラウスの白いシャツの右半身が真っ赤に染まっていく。
「くそっ、よくも!」
手負いの獣ほど恐ろしいものはない。クラウスは刃物を握った相手も怯むことはなく、暁の両手首をがっしりと押さえると、体を密着させて机と自らの体で自由を奪った。元より小柄な暁が体格の良いクラウスに敵うはずもない。小刀は二人の手の間で震えている。少しでも力の均衡が崩れれば、どちらかが深手を負いかねない状況だ。
「やめ、ろクラウス……君は、知っているだろう、僕は、やると決めたら本当に、刺すぞ……っ」
暁のことをこそこそ嗅ぎまわっていた彼のことだ。セシルと出会ったあの晩に死んだ男のことくらい予想がついているのだろう。あの男の顔を思い浮かべようとしたが、既に忘れてしまった。
「ああ、いいね、アキラ。君になら喜んで殺されよう。だがただで死にはしない。君も、道連れだっ」
クラウスの腕に力が入り、小刀が大きく振るわれる。いけない、と思ったときには暁の胸は大きく切り裂かれていた。
クラウスの肩とは比べ物にならないほどの血飛沫が舞う。ああ、この一滴一滴も全てセシルに捧げるものなのに。そんな悠長なことを考えながら、暁はガクリと机の上に倒れ込んだ。体は仰向けのまま腰で直角に曲がり、脚は宙に投げ出されていた。
「あ、ははは……これで君は、永遠に僕の……」
うぞり。暁の胸で肉が蠢く。
クラウスは血に濡れた眼鏡の奥で目を見開いた。
幾人もの男たちが口づけ、汚してきたにも関わらず、目の毒なほど白く光る暁の胸。その中央につけられた二十センチほどの傷口が、うぞうぞと蠢いているのだ。蚯蚓 が這うようなその動きはおぞましく、本能的に嫌悪感を催すのに目が離せない。やがて肉と肉は互いを引き合い、縺れ合ってひとつの肉に融合していく。その段になってクラウスはようやく気が付いた。傷が塞がっていくのだ。それも急激な速度で。
ぱっくりと開いた胸が元通りの滑らかな肌に戻るまで、十秒もかからなかった。薄く閉じられていた暁の白い瞼がかっと開く。今しがたその生命を奪われようとしていた事実など微塵も見せつけず、平素と同じように気怠げに前髪をかき分けながら、机の上に起き上がる。そして、震える指で自分を指さす男を見て妖艶に嗤った。
「ひ、ぁ……ば、化け物っ」
上擦った声で言われ、暁は甲高い声をあげて笑った。滑稽で仕方がなかった。暁からすれば、たったひとりのみすぼらしい男に異常なまでに執着する、目の前の男のほうが余程化け物じみている。だが、しかし。自分とてそうなのかもしれない。色欲と厭世に取り付かれた化け物。恐らくそれが自分だ。
暁は狂ったように笑い続けた。その異様なさまを見て、男は怖じ気づき、情けない悲鳴を上げて研究室を立ち去った。
――もう大学には来られない。何もかもが馬鹿らしくなった。結局自分はこの大学で、この国で、何がしたかったのだろうと暁は自問する。答えはとっくに知っている気がした。
「州議員、ね……うふふ」
小刀に付着した己の血潮をべろりと舐め上げる。二十余年の生涯において、今が一番体が熱くなっている。そんな気がした。
その日暁はセシルの元へ帰らなかった。
「あ、あ、あっ、きもちい、い、もっとお」
年を重ねて程よく熟成した男の体に跨り、白い身体を激しく揺すって暁は乱れた。体だけは内部で硬さを増す男のそれを歓んだが、心は乾ききっている。もうセシルでないと何も感じない。
「ああ、アキラ、もう限界だ」
「い、いいよ、いって。中に、中にください」
熱く粘っこいものが内部に吐き出される。何の味も持たないそれを内壁に感じながら、暁は天井を見上げた。感じていない顔を見られないようにしながら、自らのそれを両手で扱きあげる。
『暁』
「……う、くっ」
滑らかな日本語のイントネーションで自分の名を呼ぶ声を思い出したら、あっという間に達してしまった。
精を吐き出し、息を乱しながら男を見下ろす。自分と関わりを持ったとあっては、この男も彼に消されてしまうのだろうか。だがそのことに対して何も感じない。いや、もしかしたら今の彼には……。
「別の男のことを考えている顔をしているな」
太い腕が伸びてきてギクリとする。だが男は別に怒った様子もなく、紅潮した暁の頬を撫でた。そうだ、この男はそういったことを気にするほうではない。暁にとってこの男が無数の男の中のひとりであるように、相手にとってもそうなのだ。
内部にいまだ男のそれを感じながら、暁は精いっぱい妖しく笑んだ。
「そうなんだ。僕いま、とても気になっている人がいて」
そう言って平な胸に体を伏せる。猫のようにすり寄って見せれば、中にある雄芯がわずかに硬さを取り戻した気がした。
「ふふ、本当にいやらしい子だ。これだけ数多の男から搾り取ってもまだ足りないのか」
愛しいセシルの元に帰らずこの男の元にやって来たのは、情報を聞き出すためである。詳しくは知らぬがこの男は大層裕福で、経済界や政界に広い人脈を持っている。そういった界隈から暁の新しい相手を紹介してもらったことも、一度や二度ではない。今回もその類だとわかっているのだろう。男は、言ってみなさい、と言って尻を撫でた。
「ん……、州議員をしている、オーウェンってひと。その人に会いたいんだ」
「ほう、オーウェンか。また酔狂なところへ手を出すものだ」
やはり、繋がっていた。クラウスといい、この男といい。実はとっくに彼へ繋がる線を確保していたのだと思うと、おかしかった。もしかしたら街ですれ違ってさえいたかもしれない。だけれど、やっとつかんだ。
「だが彼に男色の気があるかは怪しいぞ」
「う、ん、っ」
粘着質な音を立てて男のそれが暁の体内から引き抜かれる。とろりと溢れた粘液には、やはり何の感情もわかなかった。
「まあ、そんなことは関係ないのかもしれん。君の体の前ではどんな男も劣情を煽られる。あるいは、彼も」
「うふふ……。それはどうかな。では、彼の居場所を教えていただけますか……?」
男は、彼が郊外の高級住宅街として有名な一角に自宅を構えていること、丁度明日に市内で講演会を予定していること、その場所などを教えてくれた。それらを書き留めたメモを外套のポケットにねじ込み、夜が明けた街へと繰り出した。
風花が舞う中、白い息を吐き出した。
頭の中で誰かの声がする。自分の名を呼ぶ声。今ならまだ引き返せるのかもしれない。だが、ここで退いては暁の中の暗い炎は二度と消えない。冷えた石畳を踏みしめ、舌打ちをした。
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