8 / 120
第8話
用件を聞くことも忘れ、ぽかんと非現実的な美貌を見つめていると、青年は困ったように笑った。
「お父さんの会社のことで話があるんだけど」と言われてようやくハッと我に返る。
「と……とりあえず、中に」
倒産だの差し押さえだのといった展開からイメージされる強面の訪問者ではないとはいえ、こんな謎かつ怪しい人物を家に招き入れることは恐ろしかったが、金の話を外でするのは流石に気が進まない。
渋々玄関先まで誘導した。
奥に通そうとしない万里に、青年は特に何も言わず名刺を差し出す。
「夜分にごめんね。僕は神導月華。お父さんの会社の株と債券が既に人手に渡ってることは知ってるかな?その関係で、話を聞きに来たんだけど……」
わかってはいたが、改めて人から言われるとずしりと来るものがある。
心許ない気持ちになりかけて、万里は弱気になるなとかぶりを降った。
「父は、今ここにはいません」
「そうみたいだね。ま、僕もお遣いっていうか、うちの上司が君のお父さんに小銭を貸してたって言うからちょっと来ただけだから」
「あのっ……父の負債はいくらくらいなんでしょうか……、今日聞かされて、何も知らなくて……」
神導という男の素性はわからないが、万里よりは事情を知っていそうで思わずかぶりつきで聞いてしまう。
自分の家のことだというのに情けないが、知らなかったものは知ろうとするしかない。
「僕もまだ最終的な数字はわからないけど、およそ五億くらいじゃないかな。数年前に投機に失敗したのが響いたみたいだね」
「ご……」
やけに軽く告げられた現実感のない額に息を呑む。
嘘をつくなと怒鳴りそうになって、だが父の羽振りを考えればあながちかつがれているとも言い切れなかった。
五億。
夏休みにしたアルバイトは、飲食店で丸一日働いても一万円に満たない額だったことを思い出す。
まともに働いて返せる額ではない。
知る限り父の金の使い方は、困窮している人間のそれではなかった。
会社のお金を使っていた?もし使っていなかったとしても、借りたお金を返せなくなって会社を差し押さえられたというなら結局同じことだ。
そして、そのお金でのうのうと暮らしていた万里もまた同罪である。
ならば自分も償わなくてはという気持ちが強く沸き上がった。
「それで……神導さんも父にお金を……?」
「うん、僕っていうか、うちの上司がお金に困ってる君のお父さんに、パーっと投機でもしちゃあどうだと貸した一億を回収するのが一応目的」
神導の言葉に待てよ、と眉を寄せる。
この男の上司とかいう人物が不用意に金を貸さなければ少なくともその一億はなかったかもしれないのではないか。
軽々しく金を借りた挙句使い果たして返すあてもない父が全面的に悪いかもしれないが、それでも浮ついた感しかない父の様子を見ればそうなることは明らかだったはずだ。
騙したのと一体何が違うのだろう。
「どうして、父にお金なんか……っ」
「さあ?あの人の考えてることなんか僕にはわからないけど。気分とか?大した理由なんてないと思うよ」
「…………………………………っ」
気分で人の人生を左右しないでほしい。
八つ当たりだとわかってはいるが、澄ました顔であっさりと言ってのける神導にも怒りがわいた。
「お前……っ」
「まあ、安心して。君に返済を迫るつもりはないから。今までの生活は忘れて、どこかで新しい暮らしを始めればいいんじゃないかな」
憤りもあっさりすかされ、自分の行く末を思うとすぐにしぼんでしまった。
やはり、この家を放棄しなければならないのか。
「この、家は……どうなる……?」
「家?ここがどうなるかはまだ決まってないと思うけど」
だが、それを決めるのは父や自分ではないのだ。
万里は俯いて唇を噛んだ。
こんなことになるまで何も知らなかったのだ。今すぐにこの事態をなんとかできるような力は万里にはない。
「この家が、大切なの?」
長い睫毛に埋もれる宝石のような瞳に覗き込まれて、ばっと顔を逸らした。
この男に、弱っている顔を見せたくない。
「自分が育った家が大事なのは普通だろ」
「育った家かどうかはともかく、大事な場所があるのは僕にもわかるよ」
本当に、この男にそんな感情があるのだろうか。
それじゃあ、と神導は歌うように言った。
「もし、君がこの場所を失いたくないなら、もう少し足掻いてみる?」
「…足掻く?」
何か自分にできることがあるというのか。
「チャンスをあげようか」
挑戦的な笑みだ。
ゴクンと喉が鳴った。
まともな提案などされるわけがない。わかっているはずなのに、聞かずにはいられなかった。
悪魔の誘惑に抗えず、万里は続きを促すように小さく頷く。
「何を…すればいい?」
「お金に困ってすることと言えば、夜のお仕事に決まっているでしょ」
えっ、と固まった万里に向かって、神導は気持ち悪いくらい綺麗に微笑んだ。
ともだちにシェアしよう!