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第9話
「(あれからは怒濤の日々だったな…)」
回想を終えた万里は、今や自分のものではなくなった実家から視線を外し、溜め息をひとつ足元へと落とす。
今日は店の定休日なので、少し外の空気を吸おうと実家の様子を見に来ていた。
あれから二月もの間、父から連絡はなく、本当に逃げてしまったのかもしれないと諦めの気持ちが芽生えかけているが、神導はまだ何も言ってこない。
スタッフとしての自分に利息の徴収以外の価値があるとは思えないので、追い出されないということはまだ事態は動いていないということだろうが、二月というのはそれなりに長い期間だ。
本当にこの家とのお別れも近いかもしれないという諦観が胸をよぎる。
『SILENT BLUE』の給料は法外な額だが、それでも五億円の利息分程度にしかならないのだ。
現時点で万里がこの家を買い戻すことはどうやっても不可能だ。
あの日神導が提示してきたのは、自分の経営するクラブで働き、その収入を利息分として納めることで時間稼ぎをしてはどうかという提案だった。
父は、浮わついた性格だが負債を放り出して一人で逃げるほど腐ってはいない(…と、その時は思っていた)。一応金策をしていると言っていたので、もう少し待ってみようということで話はついた。
神導が信用できる人物かどうかはわからない。……が、それでも他にあてもない。
否と言ったところですべてを失うのは変わらないのだから、とりあえずやれることをやるべきだ。
話が決まると、「ちょうど一部屋空いたところだから社宅貸してあげる」と言われ、行けば東京の一等地に建つ高層ビルで、各部屋が万里の部屋の四倍くらいはある3LDK…という待遇だった。
こんなところ家賃が払えないと主張すると、部屋代は月四万でいいよと言う。相場を知らない万里にもそれが物件に比べて安すぎることはわかる。
やはり何か騙されているかもしれないと心配しながら勤め始めた職場は、やたらとキラキラした人達ばかりの超高級クラブだ。エステに放り込まれ、姿勢と言葉遣いを矯正され、ロールプレイに次ぐロールプレイ。店の営業時間は夜十八時から二十四時までの六時間だというのに、昼間もずっと教育の日々で、最近になってようやく研修からは解放された。
『SILENT BLUE』のスタッフは概ねいい人ばかりだが、大学の同級生などとはまるでタイプが違い、馬鹿な話をして盛り上がったりはできない。
通っていた大学は、神導が「適当に言っとくから」と言っていた。恐らく自主退学ということになっているだろう。
借金のある身でのうのうと大学に通おうとは思っていないが、もう気の置けない友人たちと会えないのかと思うと悲しかった。
別に交友関係を制限されているわけではないが、万里自身、まだこのことを誰かに話す気になれない。
「(これから……どうなるんだろう)」
沈みかけて、はっとする。
不安を育てても、いいことはない。
いつまでもどうにもならないものを見ていても仕方がないと、感傷的な気分を振り払い、どこかでジャンクなものでも食べて帰ろうと歩きだした。
あのビルは一階に高級スーパーがあり、アプリから注文すると住人は二十四時間いつでも配達してもらえるので、どうしてもそれだけで完結してしまいがちだ。賄いもものすごく美味しい。
だが、たまには高級でない素材のものが食べたい……というのは贅沢だろうか。
……と、考え事をしていたせいか、賑やかな通りに出る曲がり角で、人にぶつかってしまった。
接触の瞬間、ふわりとどこかで嗅いだことのあるようなフレグランスが香る。
「っ……すみません」
「ああいや、こちらこそ……ん?お前……」
「え?……………あ」
知り合いだったかと思い見上げた顔に、万里は絶句した。
どうして、まさか、こんなところで。
「これはまた……、奇遇だな、バンビちゃん」
スーツをラフに着こなし、すらりとした長身に思わず目を引かれる甘めの美形。
それは、万里が今最も会いたくない男、久世だった。
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