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第36話

 入れ、と命令され、突き飛ばされるようにして見知らぬマンションの一室へと足を踏み入れた。  背後にいる男を睨んでやりたかったが、ナイフを突きつけられているので、流石に恐ろしく、ただ従う。  短い廊下を進み、つきあたりの部屋にまた突き飛ばされるようにして入った万里は、室内の光景に目を瞠った。 「(父さん……!)」  布団に簀巻きにされた父がフローリングに転がされていて、その近くの椅子に大竹が座り、窓際では柄の悪い男が煙草をふかしている。 「おい、手荒にはするなと言ったはずだ」 「そうは言っても、このお坊ちゃん、ちょっと反抗的な目つきだったんでな。暴れられてからじゃ遅いだろ」  何故、なにがどうしてこんなことになっているのか。  伊達と別れてすぐ、大竹の電話に呼び出された先には、知り合いだという…今、万里にナイフを突きつけている男が待っていた。  年齢は四十くらいか、刈り込んだ髪をアッシュブロンドに染め、派手なスカジャンから覗く首にはトライバルがのぞいている。  明らかに大竹とは結びつかない人物のため、本人に確認させてほしいと言ったが、強引に車に乗せられ、抵抗すると押さえつけられてナイフで脅された。  今まで荒事と無縁で生きてきた万里を大人しくさせるには、それで十分だった。  抵抗をやめ、どれくらいだろうか、車で移動した先が、このマンションだったのである。  車中では、大竹の言う『少し困ったこと』というのがこのことなのか、と考えていたのだが……。 「万里…」  万里の姿を認め、父の目が驚きに見開かれる。  次に父と会うときは、事態が好転した時だと思っていたのに。 「父さん……これは、一体?」  説明を求めたが、蓑虫化した父から得られたのは「父さんにもよくわからない」という残念な答えであった。 「会社を何とかするために色々してたんだけど~。退屈で遊びに行きたくて外に出たら、何か悪そうな人たちに掴まっちゃって☆」  前後の経緯なのだろうが、ファジィすぎてまったくわからない。  この人はこのままコンクリ詰めにされた方がいいかもしれないという気すらしてきた。 「でも、万里は会社のこととは一切関係ないから。解放してやってくれないか、大竹」  それでも一応父親としての自覚はあったらしい。  そんな風に言ってくれたことが意外で、…こんな時なのに少しだけ嬉しかった。 「それはお前次第だ。権利をすべてこちらに譲渡するなら、手荒なことはしない」  大竹が目顔で何か合図すると、窓際の男が面倒そうに万里の方へやってきて、粘着テープで手足を固定してしまう。  どうやら、大竹は柄の悪い男たちに指示を出す立場のようだ。  今の状況に強い恐怖を感じながらも、以前大竹に会ったときに妙な気味の悪さを感じ、咄嗟に携帯を持っていないと嘘をついてしまった理由は分かった。  理不尽な理由で仕事や立場を奪われた人間にしては、大竹は落ち着きすぎていたのだ。  どれほど理性で、会社の倒産に息子である万里は関係ないと思っていようとも、多少責めるような態度をとったり、或いはもっと必死になって父の行方を尋ねたりするものではないだろうか。  久世を責めたあの勝又という男のように、己に非があっても、言わずにいられないときというのはあると思う。  大竹の態度は、父が会社の金を使い込んで倒産したことを憤っているようには見えない。  何か裏があるのか、と見つめる万里に、大竹はじわりと笑いかけた。 「来てくれてありがとう、万里君。君の父親が素直じゃないから、どうしようかと思っていたところに電話をくれたこと、本当に感謝しているよ」 「どうして、こんなことを……」  声をかけたものの万里と話す気はないようで、答えず、椅子から立ち上がると父の前にしゃがみこんだ。 「鈴鹿春吉(はるよし)。権利の譲渡と、それから黒神会幹部への便宜を図れ。息子に無事でいてほしければな」 「それは、わからないってさっきから言ってるじゃないか。会社には、ちゃんと前と同じ待遇で戻ってきてもらえるようにするから、どうしてそれじゃダメなんだ」  大竹が鋭い視線をこちらに向けると、万里の首筋にナイフが当てられた。 「……………っ」 「万里!」  それほど大きくはないバタフライナイフだが、頸動脈を切られれば、死ぬかもしれない。  冷や汗が噴き出て、恐怖に硬直して叫びだせない万里に代わり、鼓動が五月蠅いくらいに鳴り続けている。  俺のことはいいから、などと笑って言えたらかっこいいと思うのに、そんな余裕は一つもなかった。  万里は、それでもみっともなく取り乱したりだけはしたくないと、ぐっと腹に力を入れた。  

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