2 / 7

第二話

 俺から碓氷に話掛けなくなって、数日。隣の席、つまりは日直の仕事があるということで。すっかり忘れていたが、隣の席ならば俺が彼から身を引いても視界から外れることはない。  それでも、俺はまだ碓氷への思いを捨てきれず、このぬるま湯のような関係に浸っている。席替えをしてしまったら、ただのクラスメイトという関係に戻ってしまうというのに。  いや、それでいいのだ。細い糸で繋がっているような俺達。そもそも、碓氷は俺のことをなんとも思っていないのだから、その糸が切れるまでの間だけでも碓氷の隣にいさせてほしい。  五月の心地よい日差しが差し込んだ廊下を二人で歩いていた。お互いの手にははるっちゃんにお願いされた大量の資料たち。 「最近、挨拶してくれなくなったよね」  この逃げも隠れもできない状態で碓氷によって落とされた爆弾は、俺に大打撃を与えた。 「そ、そうかな…」 なんて答えるのが正解なのか、わからない。きっと、碓氷にとっては普段挨拶してきてくれていたクラスメイトが急に無視し始めたという認識なのだろう。 「前まではおはようって言ってくれてたのに、目も合わせてくれなくなった」  その綺麗で大きな黒目が悲しみに染まっている。酷い罪悪感と、一切忘れられていない感情が頭を覆いつくした。 「そんなことないぜ、それに俺達ただのクラスメイトだし…挨拶すんの、めんどくさい日だって、あるじゃんか」  自分で言ったその言葉に、自分の心臓が抉られた。そうだよ、元々同じクラスになってまだ一か月だし、そもそも俺の一目惚れ。友達ですら無かったのに、俺は。 「そうだね、ただのクラスメイトだ」  肯定。  手が痺れてきたのは、この重たい資料のせいだと言い聞かせた。目尻がヒクヒクと痙攣する。無理矢理上げた口角をこのまま安全ピンで留めたくなった。 「うん…」 ダメだ、泣くな。せめて泣くなら、碓氷の目の前じゃないところで… 「ねえ、なんで俺に挨拶してくれてたの?」  足を留めた碓氷に気付くのが遅れて、いつの間にか数歩先を歩いていた。後ろを振り返ると日の光に照らされた碓氷が俺をまっすぐ見つめている。黒い髪は光沢を帯びて、紫に見えた。 「答えてよ」  いつもの柔らかな口調では無い。その声帯から発された音は、怒気を孕んでおり有無を言わせないよな口ぶりだ。俺を映す黒目は「絶対ここから逃がさない」と、俺を捕らえて離さない。  米神から嫌な汗が垂れてくる。喉が渇き、足が竦んで動けない。今にも罪を白状させられて、断罪される瞬間を待っているかのような。  碓氷の瞳が伏せられて、その大きな瞳が床に落ちたように見えた。  白いプリントたちが、落ちる。その様子はまるで、天使の羽がもげて、地上に落ちていくようだった。 *  碓氷に手を引かれ連れ込まれたのは、近くにあった空き教室だった。押さえつけてくる碓氷から逃げようとするが、マウントポジションを取られているのもあり、押し返すことが叶わない。しっかりと教室の鍵を閉め俺を突き飛ばし、運動部の俺を抑え込んだ碓氷があの碓氷なのか、と疑いたくなる。  しかし、教室からここまで一緒に資料を運んできたのは、正真正銘本物の碓氷でそれを疑ったって、この状況が好転することはないのだ。 「どうして、俺なんかに話しかけてくれたの?八束君」  俺を見下ろすその瞳は、冷ややかだ。冷たい視線を感じて、背筋に電気が走る。息が上手に出来なくて、心臓の音がとてつもなくうるさい。耳元で鳴っているかのようだ。 「え、いや…どうしてって…」  冷たい指先が、俺の首へと滑っていった。顎下を擦るその指に自分の急所を握られているのか、と思うと心拍数が更に増えていく。バクバクと鳴る心臓にうるさい!と叫んで耳を抑えたいのに、動けない。  するり、と制服の下を這う冷たい指先。 「わっ、な、に…」 「色気ない声出すなよ」  色気ってなんだ俺は男でそんなもんないぞ!と言い返したくても、口元が震えて、あ、とかう、だとかそんな音しかでてこない。冷ややかな言葉をかけられて、なんだかゾワゾワが止まらない。 「ハハ…八束君…勃ってる…」 「えッうそだ…」 「嘘じゃないよ? …もしかして、この状況でコウフンしちゃうの?八束クン、Mだったりしてね…?」  先ほどまで冷めきっていた碓氷の目に熱が宿る。俺の目尻がべろり、と舐められて初めて自分が泣いていたことに気が付いた。熱い吐息が顔にかかる。その綺麗な顔に見惚れてしまった。 「それで、どうして俺に話しかけてくれたの?」  言葉の節々から伝わる、俺はもう逃げられないという事実。早く言え、という圧に溜まらず目から熱いものが零れ、床に落ちた。 「…碓氷が、碓氷が好きなんだ…」 「でも、お前は鈍感で…気付いてもらえなくて…」 「迷惑なんじゃないかって…思って……」 「…お前に気が付いてほしくて………」 「好きなんだ、碓氷が」  半分聞き取れなかったと思う。話せば話すほど、一緒に溢れる涙のせいでしゃっくりと嗚咽が止まらない。床に伝ってく涙のせいで、こめかみが冷たかった。 「そこまで言うならやってみてよ」 「…え?」  楽しそうに笑う碓氷を下から見上げる。いつもは感じない雄の風貌に、喉が鳴った。 「鈍感な俺に、気付かせてみなよ。八束君が俺を好きって、わからせて」 少しかさついた唇から、厚めの舌が覗く。その口内を俺が蹂躙できたら、どれだけ気分がいいだろう、と考えた。

ともだちにシェアしよう!