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第15話

「シア……」  引き止められたアサドが、困った顔をしている。けれども掴んだ裾を離してやることはできなかった。  じっと見上げ視線だけで訴える。アサドは困っている。  すぐに戻ってくるから……そっと訴えられたのに首を振り拒否を示すとまた沈黙。  しばらくじっと考え込んだアサドは、結局「シア」の身体の下に腕を差し込んできた。 「わかった。なら一緒に行こう」  ひょいと抱き上げられたのに驚く間もなく、アサドは平然と歩き始める。力持ち。  アサドは部屋ではなく礼拝堂の外へを向かい、教会裏手にあったこぢんまりとした小屋に入った。  中にあったのは炊事場と浴槽だ。厨房と風呂、水回りの設備をひとところにまとめているらしい。ということは、風呂の向こうにある小さな扉の向こうはきっとトイレだろう。  アサドは「シア」の身体をちいさな木の椅子の上におろし、慣れた手つきで火をおこし、やけに可愛い猫脚の浴槽に湯を移していく。  捲くった袖口から伸びる腕は筋肉の筋がくっきりとしていて逞しかった。なんとなく袖を捲り、自分の腕を見る。  貧弱ぅ……すぐに仕舞った。  衣服を脱いで熱い湯に身を沈めると、ほっと息がもれた。服を脱がせるのも、浴槽に入るのも、全部アサドがしてくれた。  それまで「シア」が座っていた椅子を浴槽の横に据え、アサドが座る。ぴしゃぴしゃと指先を湯の中で遊ばせ、濡れた掌で汚れた顔を拭ってくる。  汚れた場所を清めていくのに夢中になっているのか、若干顔が近い。  アサドの唇からは、なにやらふんわりいい匂いがする。果物みたいな匂いだ。  それでまた、ささくれた気分がすこしだけ丸くなったような気がした。  なにもいわれずただただ親切にされると、止まっていた涙がまた出てきた。 「……泣くなよ」  ずっと黙っていたアサドがぽつりと呟く。  ちらりと視線を向けると、アサドは切なく、どこか痛みに耐えるような表情をしていた。湯にあたためられた掌が頬を撫でてくる。  額も。鼻筋も。髪も。唇も。 「……ッ」  唇を拭われると、乾きかけていたナマコ汁が湯に溶け、じわりと口内に苦い味が広がった。  それに勝手に表情が歪んだ。 「どうした?」 「……口の中に」  ぽつりと答えると、アサドは「ああ」と頷いた。具体的に語らずともオレがなにをいいたいのか理解してくれたらしい。  立ち上がり、カップに水を汲んで戻ってくる。口の中をすすげということのようだ。  黙って促されるままに水を含み、浴槽から身を乗り出し吐き出す。 「どう?」 「……」  数回繰り返すと、確かにナマコ汁味はなくなったように思う……が、それでも気持ちが悪さは拭えなかった。  美女顔巨根のナマコ汁が口の中に入った。その事実に気が滅入る。  お陰で「すっきりした」と頷くこともできず、ただ項垂れる。  多分うざいだろうな。  今のオレの態度は、アサドにとっては煩わしいものだろう。  全然関係がないのに、こうやって「犯されることが仕事」の穴役を慰めている。自分の仕事だってはるはずなのに。  それでも、この世界で唯一の「味方」であるこの男に、泣きつけば助けてくれるとわかっているお人好しに、際限なく甘えてしまう。同情を誘い、すこしでも長くここに留まらせたいと願ってしまう。  アサドがそばにいれば「シア」は大丈夫だ。  身体が、本能が、それを理解しているのかもしれない。 「シア……あ、そうだ! いいものがある」  まったく元気にならない「シア」に肩を落としたアサドが、突然声を上げた。  声と同時に、ぱっと表情も明るくなった。 「いい口直しがあるんだ。取ってくるよ」 「ま……ッ!」  にぱ、と笑って今にも駆け出して行きそうな男を、また慌てて捕まえた。  このちいさな小屋の中で、手が届く範囲で離れるくらいならまだいい。が、アサドは明らかに小屋から出て行こうとした。  それはだめだ。視界からいなくなるくらい離れることはできない。 「いい。いらない! 口直しなんてしなくていいから……ッ」  だから離れないでほしい。  無言の訴えは男に届いたが、それでも困惑顔なのは変わらない。これまたうざい態度だ。わかっている。わかっているけどやめることができない。 「でも、気持ち悪いんだろ」 「気持ち悪くてもいい」  捕まえた手を引き寄せ、額を寄せ、お願い、と縋る。  アサドはまた長く考え込んだが、結局こちらの願いを叶えてくれた。  浴槽へと向き直り、再び椅子に腰掛け、浴槽の縁に顎を乗せる。シア、と、秘密ごとを打ち明ける声音で名前が呼ばれた。  声に導かれ顔を上げると、そこにそっとアサドの唇が触ってきた。  アサドの口からしていたいい匂いが、口内に入ってきた。  アサドはちょんちょんと二度唇を寄せてきて、それから顔を離した。 「アルディにさ、もらったんだ。森に生ってた果物らしいんだけど……味が濃かったから、口直しにいいと思って……」  アサドの朝食で、まだいくつか残っているから取ってこようと思ったのだ、と。  突然唇を寄せてきた理由なんだろうが、意味がよくわからない。わずかに首を傾げ更に言葉を求めると、アサドは気まずく俯いた。  赤い髪に紛れてわかりにくいが、ほんのり頬が色づいている。  アサドがこちらの意図を語らずして察してくれるように、オレもアサドの考えを言葉がすくなくても理解したい。そう思うが、わからないものはわからないので仕方がない。  アサドが赤面するものだから、なんとなくつられこっちの頬まで熱くなった。 「だから……あれだよ。離れない方がいいなら、匂いだけでもおすそ分け、と……思って……」 「……」  それでちゅっとやってきたのか。  しどろもどろ語るアサドに対し、こちらもまごまごしながら「なるほど」と答える。なるほど。こいつは本当に良心の塊だ。  キッスの理由ですらやさしさ。徹底している。  そのくせ普通に照れるから、なにやらこっちまで恥ずかしい。  ちゅっとやられて「ありがとう」と礼をいうのもおかしな気がして俯いていると、軽く顎を掬われた。  親切心からくる「おすそ分け」の唇が、またそっと触れてくる。触れては離れ、離れてもまたすぐに戻ってくる。  ちらりと舌を出したのは無意識のことだった。  いい匂いの出てくるところを辿ると、かたい門の向こう、やわらかいものに舌先がさわった。甘酸っぱい。ぶどうみたいな味がする。  やわらかいものは一度驚いて遠ざかっていったが、どこかおずおずとまた戻ってきた。ちゅ、と濡れた音が響く。  いつの間にかおおきな両手に頬を挟まれていたので、勝手に口が開いた。  開いた口の中に、ぶどう味のぬるぬるが入り込んでくる。 「ふ、ぁ……」  甘酸っぱい果汁が流れ込んでくる。いい匂いが鼻の奥を抜けていく。ナマコ汁を容赦なく蹂躙する、ぶどう汁。  与えられるままに味わっていると、湯であたためられた身体が更に熱くなるようだった。  ナマコにつつかれ震えた上顎に、ぶどう味が染み渡る。全部塗り替えようとするみたいに、舌の裏側まで這い回る。 「あ、んッ、んぅ……ッ」  あふれるぶどう汁を受け止めきれずに何度も喉を鳴らすと、下半身まで甘く痺れた。 「……感じやすい身体だな」  多分、無意識だろう。  「お口直し」に夢中になっている最中、アサドがぽつりと囁いた。  それで、湯の中でかたく張り詰め自己主張している自分のナマコに気づいて……なんというか、めちゃくちゃ恥ずかしかった。

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