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【1】
会社から少し離れた駅のトイレの個室に入り、着ていたスーツを脱ぐと、細身の黒いパンツにシャツ、そして軽めのジャケットに着替えると、きっちりと固められていた髪をグシャグシャと解き、ワックスで無造作に跳ねさせる。
神経質そうに見える眼鏡を外し、左手の薬指にシルバーのリングを嵌めると、抜け殻の入った大きいバッグを肩にかけて個室を出る。
洗面台の鏡の前で立ち止まり、自信ありげに目を細めている俺――週末限定の姿だ。
母親譲りの繊細な顔立ちに、栗色の髪がわずかにかかる。くっきりとした二重瞼の奥の茶色い瞳も悪くない。
トイレを出て駅のロッカーに荷物を入れると、足早に繁華街を抜け、少し奥まった場所にあるバーへと向かう。
途中、何人かの女性に声を掛けられたが軽くあしらうのも馴れたものだ。
普段、会社での俺の姿では考えられないことだろう。
看板も出ていない薄暗い入口の木製のドアを開けると、床には深紅の絨毯が敷かれ、カウンターと奥の方にテーブル席が五つほどしかない狭い空間に飛び込んだ。
「――いらっしゃい」
カウンターの向こう側で俺に微笑むバーテンに「いつもの」と告げる。
そして、スツールに腰掛けると、出されたウォッカのソーダ割りを一口飲んだ。
回りを見回して、店内に何人かいる客のすべてに目を配る。
間接照明だけが灯された狭い店内には十人程の男性客がそれぞれにグラスを傾けている。
互いに話し合う声は囁くほどの音量で、静かなBGMの中でも内容までは聞こえない。
そんな中でも時々いくつもの視線を感じるのは、俺を気にしている証拠だ。
「――碧 さんは高嶺の花なんですよ」
バーテンの低い声にふっと笑うと、煙草を咥えて慣れた手つきで火をつけると、大きく吸い込む。
「そうかな?それでも声をかけてくる奴って無神経なヤツか、相当勇気があるヤツってこと?」
「さぁ……。でも、いつもお一人でここを出られることはないじゃないですか?」
「まぁね」
このバーは完全会員制の店だ。しかも客は男性のみ。
そう――ここはいわゆる高級なハッテン場ともいえるゲイ同士の社交場。
巷には全裸でとか、下着だけで……というドレスコードがある店もあるが、ここに来る客は高級ブランドのスーツや小洒落た格好の遊び慣れた紳士しか入れない、いわば富裕層のための社交場だ。
知らない者同士が酒を飲み、気が合えば一夜限りでもOK、後腐れなく遊ぶ……という出会いを求める場所。
俺はこの店に毎週金曜日に訪れていた。
サラリーマン風情でこんな高級店に……と思うだろうが、世の中需要と供給で成り立っている。
自分で言うのもおかしいが、俺のような上物と出会える店など滅多にない。
その噂はあっという間に広がり、この店にも客足が増えた。いわゆる看板娘ならぬ看板男なのだ。
いつものように顔なじみのバーテンと他愛のない話をしていると、隣りのスツールに気配を感じて視線を流した。
「――君が噂の碧 くんか?」
いかにも体育会系の体つき、短い黒髪が清潔感を感じさせる二十代後半の男が声をかけてきた。
特別興味を惹かれる相手ではないことは一目でわかる。
この俺に気安く声をかけるヤツなど、そうはいないからだ。誰もが躊躇い、それでも勇気を振り絞って俺を口説こうと躍起になる。富裕層ということはそれなりに地位のある奴らが集まるのだが、そういった男たちが普段は絶対に下げることのない頭を下げて一夜限りの関係を懇願する。
「ああ…。でも、俺はまだ飲んでいたい」
この店の常連なら誰もが知っている俺の断りの文句だ。
俺はこう見えても体の相性の良し悪しを一目見ただけで判断できる。
(こいつは却下だな……)
見かけは爽やかそうな青年実業家だが、SM趣味に走りそうだ。
俺を痛めつけて喜ぶタイプにはつき合いきれない。
それは今まで何度も男を経験した体が気付かせてくれる。
下手に傷でもつけられて痕が残るのも癪だし、高額なギャラが傷一つで下がるのも気に入らない。
煙草の煙を吐き出してグラスを持ち上げると、隣りの男の手が俺の腰をやんわりと撫で上げた。
「冷たいな…。そうやって何人の男を泣かせてきたんだ?俺がそう簡単に諦めると思うのか?」
執拗に撫で上げる手に嫌悪感を感じて、あからさまに顔をしかめる。
ここはキッパリと断らなければ、力ずくで連れていかれそうな雰囲気だ。
自己顕示欲が強い男は、自分の思うようにならなければ実力行使に出ることが多い。この店でも何度か目にした光景だ。
「――あんたとはそういう気分になれないって言ってるんだ。俺は自分の嗅覚を信じてるんでね。体の相性が合わないヤツとは寝ない」
「嗅覚も時には鈍る。――先週もそうだったんじゃないのか?」
耳元にふっと息を吹きかけられながら囁かれてビクリと肩を震わす。
それは決して性的な反応ではなく、嫌悪からくる自然な反応だった。
しかし、それは俺にとって思い出したくないことを掘り起こす結果となった。
先週、この店で出会った男はベッドの上で全裸の俺を赤い組紐で見事に縛り上げ、体には指一本触れることなく、ただ自分の自慰を見せつけるだけの変態だった。
お世辞でも立派とは言えないモノを扱き、低い呻き声を上げて果てた時の屈辱感は二度と味わいたくない。
皆が指を咥えて俺との関係を望むなかで、高いギャラを受け取ったとしても俺としては全く意味のない行為だった。俺の良し悪しは体を重ねて初めて分かる――と自負している。
折角の週末が不完全燃焼のまま終わり、正直この一週間はイライラを募らせて過ごしていたのだ。
まあ、会社ではそんな俺の変化に気付く奴は誰もいないのだが……。
「なんであんたが知ってるんだ?」
「あの男は仲間内では有名だよ。その噂、この店の常連である君の耳に届いていないなんておかしいね?」
その言葉にイラつきを覚えて、グラスを一気に煽った。
いちいち俺の怒りを煽るような言い方をする彼に、冷たい視線を叩きつける。
「そういうお前は、そんな男についていった俺を見て陰で笑ってたんだろう?――悪趣味だな」
空になったグラスを揺らしながら上に掲げてバーテンにおかわりを注文すると、グラスを受け取った彼はそっと目を伏せて会話を聞かないように気を遣ってくれているのが分かる。
こういった店ではよくある事だけに、彼の心遣いにはいつも助けられる。
形勢を逆転されそうになっている格好の悪いところは、出来れば誰にも見られたくはない。
自分のプライドを保持するためには、俺は常に優位にたっていなければならないからだ。
腰にあったはずの男の手が俺の尻の割れ目になぞって動く。
その指の動きにも耐えきれなくなり、嫌悪感しか感じられなくなっていた俺は思い切り睨みつけて声を荒らげた。。
「いい加減にしろ!俺はお前には興味はないっ」
「――随分とお高いんだな。そのプライドをへし折って啼かせてみたいもんだ」
「お前に出来るわけ……あぁっ」
スラックスの布越しに双丘の奥をグイッと指で押され、思わず上ずった声が出る。
そこは一週間触れられずに熱を持ったまま疼いている場所だ。
俺の反応にイヤらしく笑った男は俺の顎を掴み上げると一気に距離を詰め、顔を近づけてきた。
「もっと啼かせてやろうか?」
「やめ、ろ……っ」
俺は顔を顰めて抵抗した。しかし、顎を掴まれている以上、顔を背ける事も出来ない。
(こいつとキスなんて……絶対にイヤだ!)
そう思った時、俺の背後から不意に伸びてきた腕が男の手首を掴んで、グイッと捩じりあげた。
振り払うように掴まれていた顎が解放され、俺はそれまで詰めていた息を大きく吐いた。。
「何をするっ!」
「――おいおい。いつからこんな下品な真似をする客を入れるようになったんだ?」
頭上から響く低い声にほんの一瞬違和感を覚えた。
どこかで聞き覚えのある声ではあったが、今までの俺の相手とは違うようだ。
「申し訳ありません」
カウンターの中では、バーテンが深々と頭を下げている。
ここに来る役に対しては丁寧な対応をする彼ではあるが、ここまで恭しい態度をとったところは見たことがなかった。
この店の常連客の中でも相当地位のある大物なのだろうと想像がつく。
俺は乱れた襟元を直しながら、さも当たり前だというように、振り向きもせずにカウンターに置かれたグラスを持ち上げて口に運んだ。
すぐ隣では男が感情的に声を張り上げている。
「放せ!アンタには関係ないだろう!」
「ったく、騒がしい……。彼が断わっているのに、あんまりしつこくすると本当に嫌われるぞ。今夜は諦めて出直してきたらどうだ?」
それまで黙って様子を窺っていた他の客も、興味深々という表情で俺たちを見ている。
俺が出入りするようになって、未だかつてこの店でこんなに騒ぎになったのは初めてだ。
こういう店だけ似たようなことは何度かあったが、相手が下手に出て俺に拝み倒すか、俺が“慈悲”ともいえる施しを与えるかで何とか収めてきた。
ただ、今日の男は俺の触れて欲しくないところを突いてきただけに、絶対に回避したい相手だった。
「アンタには関係ないだろ!」
「大アリだ。――今夜、彼と約束がある」
背後の男は喉の奥で余裕ありげに笑いながら、突拍子もないことをさらっと言ってのけた。
(え……?)
驚いたのは俺の方で、思わず息を呑んだ。
基本的にウリ専ではないので、客を取るようなことはしない。ただ、相手が報酬 をくれるというのであればそれを受け取るだけだ。
これを世間一般では“ウリ”というのかもしれないが、俺はただこの体を満たしてくれる相手であればそれでいい。具体的な金額の明示はない。あくまで“お小遣い”の範疇だと俺は思っている。
ここは、売り買いを抜きにした合法的な出会いの場だ。
だから俺は、特定の相手との約束はしない。
次も――と誘われてもその時の気分次第だと言うことにしている。
「くそっ」
吐き捨てるように言って、男は掴まれていた腕を振り払い店を出て行った。
少しのざわめきの後、店内は再び落ち着きを取り戻し始める。
俺は自分のことでありながら、もうどうでもいいというように無関心を装っていた。
「――さてと。じゃあ、出ようか?碧 ……」
「はぁ?」
大きな手が肩を優しく抱きよせる。ふわりと香る心地よい香水に包まれた。
警戒心を丸出しで毛を逆立てた猫のように肩越しに振り返ると、声の主は耳元でそっと囁いた。
「話を合わせろ……」
ゾクリとする甘い響きに、俺は高鳴る胸を誤魔化すように渋々立ち上がった。
未だに顔も見ていない相手に肩を抱かれたまま、実に無駄のない動きでカウンターに代金を置くのを俯きがちに見つめていた。
骨ばってはいるが長い指先が妙に色っぽい。
「ありがとうございました。今夜は申し訳ありませんでした。またのお越しを……」
頭を下げるバーテンの方を振り返って、彼に促されるまま薄暗い店を出た。
外には黒い高級外車が路駐されている。曇り一つなく磨かれたボディが外灯の明かりを反射している。
俯いていた俺は思い切って顔をあげる。その刹那、目を見開いたまま動けなくなった。
一八〇センチを超えるの長身、ピンストライプの濃紺の三つ揃いをきっちりと着こなし、やや長めの前髪を軽く後ろに流すようにセットされたスタイルは全く嫌味を感じない。それに加えてスッキリとした端正な顔立ちは誰もが目を見張る。
(マジか……!専務――だ)
鳴海 拓未 ――三十四歳という若さで専務になった彼は、営業部からの成り上がりだ。
営業部での実績と、強引でも有利な方へと仕向ける手腕を社長にかわれ、今では会社になくてはならない存在になっている。
独身ではあるが、女性との噂は絶えず耳に入ってくる。
まあ、これだけの容姿であれば相手に困ることはないはずだ。
(ヤバいだろ……これっ)
――というか。我が社の専務が、このゲイ専門の会員制のバーに出入りしていること自体も驚きだが、何より俺の正体がバレていないかと不安になる。
営業部は専務直属の部署だけに、顔を合わせることは何かと多い。もちろん、俺だって何度も面識はある。
社内では出来るだけ目立たず、物静かなオタクのフリをしているんだからバレるはずはない。
ともすれば同僚からも「存在感がない」と言われるくらいなのだから……。
俺は彼の腕からすり抜けるようにして体を離すと、動揺を隠すようにおもむろに背を向けて髪をかきあげた。
「あのさ……さっきはありがとう。――俺、今夜は帰るから」
一応助けてもらったこともあり、感謝の気持ちだけを告げると足早に歩き出した。
しかし、彼は素早く手を伸ばして俺の二の腕を優しく掴んだ。
「――送っていこうか?また変な男に絡まれるかもしれない」
「いいよ……。そういうの面倒だから」
冷たく応えた俺の肩をちょっと強引に抱き寄せると、ふらついた俺のわずかな隙をついて唇を重ねてきた。
「ん――っ!」
男にキスをされる事など決して初めてではないが、妙な緊張感に体を強張らせて思わず息を止める。
息苦しさを感じてわずかに開いた唇から濡れた厚い舌が入り込んできた。
歯列をゆっくりとなぞり、少しずつ奥へと忍び込んでくる。
俺の舌を絡め取るようになぞってから、絶妙のタイミングで去っていく。
こんな事を繰り返されては、さすがの俺も焦れてくる。ついに耐えきれなくなった俺も彼の口内へ舌を滑り込ませる。
これって、どう考えても同意してる……ってこと、だよな。
でも、これほど甘くて優しいキスを無下に断るなんてことは、今の俺には出来なかった。
今までに経験したことのない極上のキス……。
「んふ…っ、ん……っ」
重なった唇の隙間から甘い吐息が零れる。
たったキスだけで腰のあたりが疼き始めるなんて、今までの相手では考えられなかった。
(キス、上手い……)
つい数分前まで拒絶していたはずの手を彼の背中に回し、貪るようにキスを繰り返す。
広くて筋肉質の背中――毎日目にしているはずなのに、こうやって触れたのは初めてだ。
まあ、特別なことがなければ闇雲に他人の――まして専務の背中になんて触れることはない。でも今はこうして彼の背中に縋りついている。
「――んぁ…っ」
ゆっくりと唇が離れた瞬間、吐息交じりに声が出る。
互いの唇に銀色の糸が引き、たかがキスなのに俺にとっては濃厚な行為だったことを思わせる。
「――これでは下心があることが見え見えだな?」
彼は二重の目元を綻ばせて微笑むと、ポケットから車のキーを取り出しロックを解除すると、助手席のドアを開けた。
「乗って……」
躊躇いがなかったわけではない。でも――もう引き返せない気がした。
まだ彼の余韻を残す自分の唇に指を押し当てたまま、見えない何かに背中を押されるように車に乗り込んだ。
ゆっくりと動き出した車内には甘い香りが漂っていた
専務の愛用している香水だ。社内でも女子社員には受けがいい。
さっき店で肩を抱き寄せられた時にも感じた香り……。あの時点で気付くべきだったと今更後悔してもあとの祭りだ。
少し硬めのレザーシートに凭れて、流れていく窓の外の景色をぼんやりと見つめる。
車内という限られた密室で、なるべく顔を見せたくない。
普段とは違うと言っても、ちょっと勘の鋭い者ならば気づかれる可能性は高い。
「――機嫌が悪いのか?俺が無理やり連れ出したりしたから?」
「別に……。――で、今夜は期待してもいいんだよね?」
さっきのキスで完全にエンジンがかかってしまった体はどうすることも出来ない。
このまま彼の誘いを振り切って帰宅し、自分で処理することも考えたが、俺の嗅覚はそうすることを拒んでいた。
久しぶりの上物に出会えたということが、不安よりも期待の方が凌駕した。
社内では、あんまり顔を合わせることもないし、ここは割り切って一晩だけ付き合ってしまおうかと……腹を括っている自分がいる。
しかし、それは言い訳にすぎなくて……。
俺は――この男に抱かれたいと思っている。この俺をキス一つで魅了した男を知りたいと思ってしまったのだ。
「その気にさせてしまったかな?」
「当り前だっ。第一、あの店に出入している時点で相手を探してたんだろ?俺を相手に出来るなんてラッキーだったな」
「噂には聞いてる。あの店の看板男だってな……。だが、自分が認めた男でなければ体を開かない――そうだろ?」
「どうせ楽しむなら、相性がいい方がイイに決まってる。――まあ、最近はアイツが言ってた通りハズレばっかりだったけど」
「しかし、俺との相性が良いとは限らないだろ?それでもいいのか?」
「そんなの、ヤッてみなきゃ分からないだろ。それに……今夜は“ハズレ”ではない気がする」
「根拠は?」
「――勘、かな」
楽しげに口元を綻ばせる彼の横顔をちらりと盗み見る。
すれ違う車のライトに照らされた横顔は社内で見かける厳しい表情は見つからない。
ONとOFFを見事に切り替えることが出来る彼は、やはり出来る男なのだろう。
こんな彼に抱かれる女性は優越感に満たされて、絶対に離れたくないと思うに違いない。
それに――俺の中ではもう“相性のいい相手”として認識されているのだから、今更だ。
しばらくして高級ホテルが建ち並ぶ通りに出ると、あるホテルの前で車線変更し、そのまま地下駐車場に入って行った。
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