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第5話 とある事情と、ささやかな希望

 じりじりと、亀の歩みのような5年間だった。 気の置けない友達になってほしかっただけのはずが、自分を必要とされたくて、結果的には好きになっていた。 その思いは、香野に対する裏切りのような気もして、小鳥遊にとっては後ろめたいものだった。 でも香野は、たった一日でそれをふっとばしてしまった。 細かな心遣いとか、微妙な心理戦とかそういう面倒くさいことはしなかった。 ストレートに好きだと告げて、キスをした。小鳥遊の、男の体を愛おしげに撫でてくれた。 最初は、何かの間違いかとも思った。今にも「冗談だ、やりすぎた」と言われるのではないかと、身構えた。でも、そんなことはなかった。 香野の態度は、自分一人でぐずぐずと腐る寸前まで発酵させていた片思いを、あっさりと二人の恋に昇華してしまった。  嬉しさと照れがない交ぜになって、口が悪くなってしまった。それすら、可愛いと言われたら、もうお手上げだ。 小鳥遊は、素直に香野の体に寄りかかって、幸せに浸った。許されたと思えた。 大げさに言えば、「生きてて良かった」だ。 そう。小鳥遊は、自分に対して「お前、生きてて良かったな」と言ってやりたい気分だった。 結婚6か月を過ぎて決定的に破たんして、そこから数か月かけて離婚した。あの砂漠にたった一人でいるような自分に、教えてやりたい。 お前を好きだと言ってくれる奴がいるよと。お前がお前でいるだけで、いいよと言ってくれるやつがいるよと。  だから、なるべく香野の意向にそってやりたいとも、思っていた。 もちろん、香野が本当に自分を欲しいと思うならの、話しだが。 小鳥遊は、少しだけ、自分を大切にしてみることから始めることにした。 ☆  それにしても、何で離婚することになったのかと、思い返してみる。 結婚して最初の一か月ほどは、新婚気分が盛り上がっていたこともあって、心身ともに妻をちゃんと愛していた。 それが、早い段階で義務に変わった。少なくとも、小鳥遊にとってはそうだった。 「子どもを作る」という言い方が、そもそも不快だった。 まだ、20代中ごろの自分たちが、それほど焦って子どもを持つ必要があるとも思えなかった。ただ、授かりものだと思っていたから、避妊はしなかった。早くできれば、その子も含めて家族になればいいと思っていた。 でも、その態度は許されなかった。 妻となってくれた人を、ゆっくり大事にする時間は与えられなかった。 「協力的でない夫」とは離婚をしたいと、妻から切り出されたのはわずか半年後だった。離婚が決まるまで、実家に帰ってくれとも言われた。 それほどまでに? 小鳥遊には、理解できなかった。様々な理由を想像してみても、自分がみじめになるだけだった。 ただ、「お前はいらない」と言われたんだなと、そう理解することにした。  妻が住みたいと言って買ったマンションを出て、実家近くにアパートを借りた。 離婚という事なら、義理の両親にも伝えなければと父親に連絡をすると、会いたいと言われた。 温厚な義理の父親からも叱責されるのかと、重い気分で会いに行くと、頭を下げて謝られた。 君が悪いんじゃないだろう?と。 父親は、どうやら母親から状況を全部聞いていたらしい。 恥ずかしさに、血の気が引く思いだった。ただ、謝ってくれる気持ちには、感謝した。そして、その後の離婚条件の整理と手続きは、すべて小鳥遊と妻の父親が書類で進めた。 自分の親には、不妊治療の方針で意見が合わなかったのだと伝えた。両親が、その若さで?と訝しんだのも、無理はない。自分の検査結果が思わしくなかったのだと付け加えると、父も母もそれ以上は追及しなかった。若いのだから、早くけりをつけた方がいいと、離婚に賛成してくれた。申し訳ないと思ったけれど、あの時はどうしようもなかった。 離婚届を自分が勤める役所の戸籍課に提出する場に立って初めて、自分がひどく傷ついていることに気づいた。 担当者は、淡々と書類を受領してくれた。事務的であるという事が慰めになるのだと、その時初めて知った。  小鳥遊が、「自分なんて、どうでもいい」と思い出した理由は、こんなところだ。 陳腐で、どこにでも転がっている、つまらない夫婦の行き違いだ。 慰謝料を取られたわけでなし、長い裁判をしたわけでもない。傍から見れば、円満離婚だ。 マンションのローンも、マンション名義を妻に書き換えると同時に、妻の父親が支払うことになった。 失ったものは、少ない。 少ないけれど、離婚の事実が重い。重い?いや、辛い。辛い?いや、ただ寂しい。 自分を必要だと思ってくれる人は、この世にいないのではないかという、孤独の渦にはまり込んでしまったような気がした。 そんな時期に、母親からふと香野勇也の近況を聞いた。 自分を慕ってくれた過去を持つ幼馴染は、今頃になって連絡して、反応してくれるだろうか。 昔教えてくれたメールアドレスは、変わっているかもしれない。香野には内緒で、母親経由でメールアドレスを確認してもらった。 小鳥遊は、これ以上悪い状況にはならないだろうとシニカルな自分を装って、なんとか香野にメールを送ったのだった。  以上のような経過を鑑みるに、香野の行動は、一人の人間の尊厳を救ったと言えないこともない。 小鳥遊に、少し自信を取り戻させ、とにかく毎日生きて働こうとする意志を継続させてきたのだから、存外大きな意味があると言っていい。 「生きてて、良かった」は、決して大げさではない。少なくとも、小鳥遊晴希にとっては。 そして、小鳥遊晴希は今日も仕事をする。 食事もとるし、掃除もする。風呂で、一日の疲れもほぐす。清潔なシーツのかかったベッドに寝て、また朝を迎える。 香野に心配をかけないような、自分も安心できるような、そんな毎日を心がけた。 また、金曜日が来る。 ☆  香野勇也の仕事は、文房具の営業だ。 営業とは何をするかと言えば、商品を売り込んで、文房具店や本屋の店先に沢山商品を並べてもらうことだ。 平棚を確保するための企画もする。新学期準備の頃、新年度準備の頃、クリスマス前は大忙しだ。 そろそろ、下半期がスタートする。 これから、クリスマス商戦の利益確保、2月後半から3月の卒業、新入学シーズンにかけての売り上げ目標達成が命題になる。 香野は、実はそういうべたな企画は苦手だ。 イベントに絡めて、複数の商品を組み合わせて大々的に展開するというスケール感を持ちあわせていない。 売れそうな新しいキャラクターを見つけてきて、版権商品を作るというのも、得意ではない。目端が効かないのだろう。 ただ、じっくりとロングセラーを作っていくことには興味があるし、やりがいもある。 商品そのものにスポットをあてて、良いところや売り出しポイントを見つけて、新たな販売戦略を練るのだ。 夢は、万年筆の担当になることだ。 高額商品でもあるし、国産輸入に限らず、根強いファンが多い。今はあまり使っている人もいないので、新規開拓の余地もあると思っている。 長く大事に使ってほしいとも思うし、新しい技術が盛り込まれた万年筆にも挑戦してほしいとも思う。 文房具を愛するお客様に、よい道具を長く使ってもらいたいと思っている。 いつか、万年筆担当になりたいと思いながら、今日も鉛筆や消しゴムの在庫確認と発注に追われている。  その合間にも、小鳥遊晴希のことを思う。 優しくて、可愛くて、照れ屋で、実は内弁慶。黒目がちな大きな目とちょっと受け口の、控えめな笑顔。すらっとした細身の体と、長い首となだらかな肩。 鉢植えにかこつけて好きだと伝えてみたら、なんと、自分を好きだと言ってくれた。しかも、ずっと前からだという。隠し通して傍にいるつもりだったなんて、意外と情熱的だ。 なのに、自分には価値がないかのような事を言う。小鳥遊晴希の存在が、どうでもいいはずがない。 理由は聞かないと、決めた。過去をほじくり返すよりも、目の前の、好きな人を大事にすることにした。小鳥遊にも、自分を大事にしてほしいと伝えたら、そうだなとうなづいてくれた。 今日は、どうしているだろうか。 小鳥遊のたたずまいには、秋の乾いた空気や高い空が、きっとよく似合う。会社になんかいないで、散歩でもしたくなるような天気だ。 今度、休みの日にでも、誘ってみようか。 銀座の大型文房具店に、お勧めの万年筆を見にいくのもいいかもしれない。 とても買えないけれど、見るだけでもいいじゃないか。 そして、いつか美しい万年筆をプレゼントしたい。小鳥遊は、受け取ってくれるだろうか。 その日のために、しっかり働くべきだろう。 そうしたら、遠慮せずに受け取ってくれるかもしれない。特別優秀ではないけれど、真面目さが取り柄だ。仕事のできる男になりたい。小鳥遊晴希が誇れるような、そんな男になりたいと思った。 ☆  香野勇也にも、金曜日は来た。 今日、小鳥遊晴希は家に来てくれるだろうか? 来てほしいなと、メールをしてみたほうがいいだろうか。それとも、今までどおりのほうが負担にならないだろうか。 友達同士なら、気にならないことだ。なのに、恋が始まると、妙な事が気になり始める。こんな気持ちは、久しぶりだ。大人になっても、変わりはしない。負担になりたくないし、嫌われたくないのに、やっぱり会いたくて、連絡しようとしてしまう。 どうしようかなと迷っていたら、思い人から先手を打たれた。 <家で、待っていてもいいか > 香野は、スマホの操作を間違えて、危うくメールを消すところだった。一度メールを閉じて、深呼吸をした。それから、落ち着いて返事を送った。 <もちろん。必ず帰るから、待ってて>と。 本当に、中学生みたいだ。初々しいドキドキ感が、体中を駆け回る。 ……晴希、好きだ。 昼休み中、しばらく顔がにやけて困った。 しかし、取引先からの電話というのは、なぜか終業時間直前に鳴る。 そこから、希望の商品の在庫を確保して、配送の手配と到着予定時刻を確認して、取引先の担当者に連絡をすると、20時近くになっていた。 ……少しでも、早く帰りたいのにっ! 全部の仕事を終えた香野は、荒っぽくパソコンの電源を切って、駆け抜けるようにオフィスを出た。 電車に飛び乗って、すぐにメールを打った。 <今から、帰るから、遅くなって、ごめん> 送信すると、すぐに返事が来た。 <慌てなくてもいい。いつも金曜日にはいるんだから> そのメールを読んで、香野は肩の力がぬけた。 ……そうだ、いつもと変わらない。晴希は家に居てくれる。 気を取り直して、買ってきてほしいものはないか、何かお土産はいるかと長いメールを送って、黙って帰って来いと、叱られた。 それすらも嬉しくて、香野は駅からの帰り道を急いだ。 自分の住むアパートの窓を見上げると、窓から明かりが見えた。 中には、小鳥遊晴希がいるはずだ。 ほっとして、嬉しくて、ちょっと邪な気持ちも沸いたりして、浮かれすぎないようにと一度深呼吸をした。 ただいまと言ったら、おかえりと言ってくれるだろうか。抱きしめてもいいだろうか? きっと、照れて怒られる。そうしたら、頬にキスをして……。 階段を上がる足も軽やかに、玄関の鍵を開けた。 香野と小鳥遊に、二人の夜が来た。

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