5 / 13
第5話 とある事情と、ささやかな希望
じりじりと、亀の歩みのような5年間だった。
気の置けない友達になってほしかっただけのはずが、自分を必要とされたくて、結果的には好きになっていた。
その思いは、香野に対する裏切りのような気もして、小鳥遊にとっては後ろめたいものだった。
でも香野は、たった一日でそれをふっとばしてしまった。
細かな心遣いとか、微妙な心理戦とかそういう面倒くさいことはしなかった。
ストレートに好きだと告げて、キスをした。小鳥遊の、男の体を愛おしげに撫でてくれた。
最初は、何かの間違いかとも思った。今にも「冗談だ、やりすぎた」と言われるのではないかと、身構えた。でも、そんなことはなかった。
香野の態度は、自分一人でぐずぐずと腐る寸前まで発酵させていた片思いを、あっさりと二人の恋に昇華してしまった。
嬉しさと照れがない交ぜになって、口が悪くなってしまった。それすら、可愛いと言われたら、もうお手上げだ。
小鳥遊は、素直に香野の体に寄りかかって、幸せに浸った。許されたと思えた。
大げさに言えば、「生きてて良かった」だ。
そう。小鳥遊は、自分に対して「お前、生きてて良かったな」と言ってやりたい気分だった。
結婚6か月を過ぎて決定的に破たんして、そこから数か月かけて離婚した。あの砂漠にたった一人でいるような自分に、教えてやりたい。
お前を好きだと言ってくれる奴がいるよと。お前がお前でいるだけで、いいよと言ってくれるやつがいるよと。
だから、なるべく香野の意向にそってやりたいとも、思っていた。
もちろん、香野が本当に自分を欲しいと思うならの、話しだが。
小鳥遊は、少しだけ、自分を大切にしてみることから始めることにした。
☆
それにしても、何で離婚することになったのかと、思い返してみる。
結婚して最初の一か月ほどは、新婚気分が盛り上がっていたこともあって、心身ともに妻をちゃんと愛していた。
それが、早い段階で義務に変わった。少なくとも、小鳥遊にとってはそうだった。
「子どもを作る」という言い方が、そもそも不快だった。
まだ、20代中ごろの自分たちが、それほど焦って子どもを持つ必要があるとも思えなかった。ただ、授かりものだと思っていたから、避妊はしなかった。早くできれば、その子も含めて家族になればいいと思っていた。
でも、その態度は許されなかった。
妻となってくれた人を、ゆっくり大事にする時間は与えられなかった。
「協力的でない夫」とは離婚をしたいと、妻から切り出されたのはわずか半年後だった。離婚が決まるまで、実家に帰ってくれとも言われた。
それほどまでに?
小鳥遊には、理解できなかった。様々な理由を想像してみても、自分がみじめになるだけだった。
ただ、「お前はいらない」と言われたんだなと、そう理解することにした。
妻が住みたいと言って買ったマンションを出て、実家近くにアパートを借りた。
離婚という事なら、義理の両親にも伝えなければと父親に連絡をすると、会いたいと言われた。
温厚な義理の父親からも叱責されるのかと、重い気分で会いに行くと、頭を下げて謝られた。
君が悪いんじゃないだろう?と。
父親は、どうやら母親から状況を全部聞いていたらしい。
恥ずかしさに、血の気が引く思いだった。ただ、謝ってくれる気持ちには、感謝した。そして、その後の離婚条件の整理と手続きは、すべて小鳥遊と妻の父親が書類で進めた。
自分の親には、不妊治療の方針で意見が合わなかったのだと伝えた。両親が、その若さで?と訝しんだのも、無理はない。自分の検査結果が思わしくなかったのだと付け加えると、父も母もそれ以上は追及しなかった。若いのだから、早くけりをつけた方がいいと、離婚に賛成してくれた。申し訳ないと思ったけれど、あの時はどうしようもなかった。
離婚届を自分が勤める役所の戸籍課に提出する場に立って初めて、自分がひどく傷ついていることに気づいた。
担当者は、淡々と書類を受領してくれた。事務的であるという事が慰めになるのだと、その時初めて知った。
小鳥遊が、「自分なんて、どうでもいい」と思い出した理由は、こんなところだ。
陳腐で、どこにでも転がっている、つまらない夫婦の行き違いだ。
慰謝料を取られたわけでなし、長い裁判をしたわけでもない。傍から見れば、円満離婚だ。
マンションのローンも、マンション名義を妻に書き換えると同時に、妻の父親が支払うことになった。
失ったものは、少ない。
少ないけれど、離婚の事実が重い。重い?いや、辛い。辛い?いや、ただ寂しい。
自分を必要だと思ってくれる人は、この世にいないのではないかという、孤独の渦にはまり込んでしまったような気がした。
そんな時期に、母親からふと香野勇也の近況を聞いた。
自分を慕ってくれた過去を持つ幼馴染は、今頃になって連絡して、反応してくれるだろうか。
昔教えてくれたメールアドレスは、変わっているかもしれない。香野には内緒で、母親経由でメールアドレスを確認してもらった。
小鳥遊は、これ以上悪い状況にはならないだろうとシニカルな自分を装って、なんとか香野にメールを送ったのだった。
以上のような経過を鑑みるに、香野の行動は、一人の人間の尊厳を救ったと言えないこともない。
小鳥遊に、少し自信を取り戻させ、とにかく毎日生きて働こうとする意志を継続させてきたのだから、存外大きな意味があると言っていい。
「生きてて、良かった」は、決して大げさではない。少なくとも、小鳥遊晴希にとっては。
そして、小鳥遊晴希は今日も仕事をする。
食事もとるし、掃除もする。風呂で、一日の疲れもほぐす。清潔なシーツのかかったベッドに寝て、また朝を迎える。
香野に心配をかけないような、自分も安心できるような、そんな毎日を心がけた。
また、金曜日が来る。
☆
香野勇也の仕事は、文房具の営業だ。
営業とは何をするかと言えば、商品を売り込んで、文房具店や本屋の店先に沢山商品を並べてもらうことだ。
平棚を確保するための企画もする。新学期準備の頃、新年度準備の頃、クリスマス前は大忙しだ。
そろそろ、下半期がスタートする。
これから、クリスマス商戦の利益確保、2月後半から3月の卒業、新入学シーズンにかけての売り上げ目標達成が命題になる。
香野は、実はそういうべたな企画は苦手だ。
イベントに絡めて、複数の商品を組み合わせて大々的に展開するというスケール感を持ちあわせていない。
売れそうな新しいキャラクターを見つけてきて、版権商品を作るというのも、得意ではない。目端が効かないのだろう。
ただ、じっくりとロングセラーを作っていくことには興味があるし、やりがいもある。
商品そのものにスポットをあてて、良いところや売り出しポイントを見つけて、新たな販売戦略を練るのだ。
夢は、万年筆の担当になることだ。
高額商品でもあるし、国産輸入に限らず、根強いファンが多い。今はあまり使っている人もいないので、新規開拓の余地もあると思っている。
長く大事に使ってほしいとも思うし、新しい技術が盛り込まれた万年筆にも挑戦してほしいとも思う。
文房具を愛するお客様に、よい道具を長く使ってもらいたいと思っている。
いつか、万年筆担当になりたいと思いながら、今日も鉛筆や消しゴムの在庫確認と発注に追われている。
その合間にも、小鳥遊晴希のことを思う。
優しくて、可愛くて、照れ屋で、実は内弁慶。黒目がちな大きな目とちょっと受け口の、控えめな笑顔。すらっとした細身の体と、長い首となだらかな肩。
鉢植えにかこつけて好きだと伝えてみたら、なんと、自分を好きだと言ってくれた。しかも、ずっと前からだという。隠し通して傍にいるつもりだったなんて、意外と情熱的だ。
なのに、自分には価値がないかのような事を言う。小鳥遊晴希の存在が、どうでもいいはずがない。
理由は聞かないと、決めた。過去をほじくり返すよりも、目の前の、好きな人を大事にすることにした。小鳥遊にも、自分を大事にしてほしいと伝えたら、そうだなとうなづいてくれた。
今日は、どうしているだろうか。
小鳥遊のたたずまいには、秋の乾いた空気や高い空が、きっとよく似合う。会社になんかいないで、散歩でもしたくなるような天気だ。
今度、休みの日にでも、誘ってみようか。
銀座の大型文房具店に、お勧めの万年筆を見にいくのもいいかもしれない。
とても買えないけれど、見るだけでもいいじゃないか。
そして、いつか美しい万年筆をプレゼントしたい。小鳥遊は、受け取ってくれるだろうか。
その日のために、しっかり働くべきだろう。
そうしたら、遠慮せずに受け取ってくれるかもしれない。特別優秀ではないけれど、真面目さが取り柄だ。仕事のできる男になりたい。小鳥遊晴希が誇れるような、そんな男になりたいと思った。
☆
香野勇也にも、金曜日は来た。
今日、小鳥遊晴希は家に来てくれるだろうか?
来てほしいなと、メールをしてみたほうがいいだろうか。それとも、今までどおりのほうが負担にならないだろうか。
友達同士なら、気にならないことだ。なのに、恋が始まると、妙な事が気になり始める。こんな気持ちは、久しぶりだ。大人になっても、変わりはしない。負担になりたくないし、嫌われたくないのに、やっぱり会いたくて、連絡しようとしてしまう。
どうしようかなと迷っていたら、思い人から先手を打たれた。
<家で、待っていてもいいか >
香野は、スマホの操作を間違えて、危うくメールを消すところだった。一度メールを閉じて、深呼吸をした。それから、落ち着いて返事を送った。
<もちろん。必ず帰るから、待ってて>と。
本当に、中学生みたいだ。初々しいドキドキ感が、体中を駆け回る。
……晴希、好きだ。
昼休み中、しばらく顔がにやけて困った。
しかし、取引先からの電話というのは、なぜか終業時間直前に鳴る。
そこから、希望の商品の在庫を確保して、配送の手配と到着予定時刻を確認して、取引先の担当者に連絡をすると、20時近くになっていた。
……少しでも、早く帰りたいのにっ!
全部の仕事を終えた香野は、荒っぽくパソコンの電源を切って、駆け抜けるようにオフィスを出た。
電車に飛び乗って、すぐにメールを打った。
<今から、帰るから、遅くなって、ごめん>
送信すると、すぐに返事が来た。
<慌てなくてもいい。いつも金曜日にはいるんだから>
そのメールを読んで、香野は肩の力がぬけた。
……そうだ、いつもと変わらない。晴希は家に居てくれる。
気を取り直して、買ってきてほしいものはないか、何かお土産はいるかと長いメールを送って、黙って帰って来いと、叱られた。
それすらも嬉しくて、香野は駅からの帰り道を急いだ。
自分の住むアパートの窓を見上げると、窓から明かりが見えた。
中には、小鳥遊晴希がいるはずだ。
ほっとして、嬉しくて、ちょっと邪な気持ちも沸いたりして、浮かれすぎないようにと一度深呼吸をした。
ただいまと言ったら、おかえりと言ってくれるだろうか。抱きしめてもいいだろうか?
きっと、照れて怒られる。そうしたら、頬にキスをして……。
階段を上がる足も軽やかに、玄関の鍵を開けた。
香野と小鳥遊に、二人の夜が来た。
ともだちにシェアしよう!