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第7話 銀座でお茶を
香野は、小鳥遊の体も心も、しっかりと捕まえていたいと思っている。
互いの気持ちは、通じ合っているはずなのに、小鳥遊はどこか自信がないようだ。だから、しっかり捕まえているよと、伝えたい。
それと同時に、小鳥遊に一人の時間が必要なことも、わかっている。
小鳥遊には、深く静かに呼吸をするために、一人になる時間が必要だ。でもそれは、一人ぼっちで生きていきたいということではないはずだ。一人きりの孤独と、精神の安定を保つために一人の時間を確保することは、まったく別のはずだ。
その時間は、二人で生きていくためにきっと必要だ。
だから、香野は小鳥遊の居場所になりたい。自由に出入りできる窓のついた、リラックスできる場所になりたい。独りの時間を過ごしたら、細い紐を伝って、必ず自分の元に戻ってきてほしい。
そこで、香野は小鳥遊を構って甘やかして、隅々まで可愛がりたい。
香野は、そんな自分に呆れながら、小鳥遊を苦しめない力加減を探し続けている。
そんな香野の気遣いに、小鳥遊はちゃんと気づいている。気づいて、長い孤独から解放されたと感じていた。
「来たよ」と手を伸ばせば、「お帰り」とその手を握ってくれることが、とても嬉しい。小鳥遊は、緩やかな束縛の中で、安心して一人になれるようになった。
理想的な関係のようだけれど、香野にしてみれば、嬉しいけれどちょっと淋しい。
だから、デートに誘った。
自分は小鳥遊にとって特別だという事を、主張しすぎたくはないけれど、自分しかできない事を増やしたくなったのかもしれない。
一緒に散歩をして、ちょっといい景色を見たりして、それから一緒に家に帰ってきたいのだと伝えた。
小鳥遊も、すんなりとその誘いを受けた。
「デート?と言えなくも、ないか。具体的に、何か希望ある?」
「俺、文房具屋じゃん。銀座に行きたいんだ」
「赤いクリップの?」
銀座には、老舗の文房具店がある。大きな自社ビルを持ち、地下1階から地上12階まで、びっしり文房具が収まっているらしい。
「そのすぐ近くにもう一つビルがあって、そっちに見せたいとこがあるんだ。行ったことある?」
「ない。行ってみるか」
「じゃ、決まり。駅で待ち合わせしようぜ」
「なるほど。確かにデートだな。で、俺はお持ち帰られるわけだ」
「それじゃ、俺がすっごい悪い奴みたいじゃね?」
香野の小さな不満に、小鳥遊はにやりと笑うだけで、特に答えなかった。その代わりとでも言うように、香野の髪をさらっと撫でた。
ほっと胸をなでおろした香野は、引き出しをごそごそとかき回すと、小さな箱を取り出した。一本の、古びたシャーペンが入っていた。
「これ、覚えてる?」
「お前、よくこんなの持ってるな。懐かしい」
「お祝いでもらったんだから、無くしたりしないよ。これ、大事にしてるんだ」
「こんなに長く大事にしてもらえるなんて……」
目尻をさげて、小鳥遊はシャーペンを見つめている。
「これのおかげで、文房具屋になったようなもんだよ」
「じゃ、プロに案内してもらおうかな?」
「まかせて」
機嫌よく笑う小鳥遊の額に、香野はまたキスをした。
甘ったるい声を聴きながら、照れた小鳥遊が額を手のひらでこする。伏せた眼のはしでちらりと香野を睨んだと思うと、小鳥遊の腕は香野の首にまきついた。
小鳥遊の唇が、香野の唇をゆるく食んで、そのままするりと舌を差し出してきた。
そういう事ならと、香野の舌はちゅるりとその舌を迎えて捕まえた。
吸って咬んで撫でてなぞって、互いの唇を味わい尽くそうとする。
「ん…なぁ、おれ、触りたくなっちゃうよ?」
そう言いながら、香野は小鳥遊の腰を抱き寄せて撫でまわしている。
「そ、れは、こま、る…かな」
切れ切れに返事をしながら、小鳥遊の唇は香野の耳をなぞっている。
「晴希、嬉しいけどだめなんだろ?」
そう。そろそろ帰る時間なのだ。
「んん。ごめん。また来週まで会えないから、つい…」
「いつ来たっていいのに」
「は?」
「は?じゃないよ。いつ来たって、俺は構わないよって言ってんの。そもそも、今までだって勝手に来てくれてたんだから、週に一回が、二回になろうと三回になろうと、たいしたことじゃないだろ?」
「いや、だって、勇也にも、都合とか…」
「必ず家に居てくれって言われたら、それは無理だけど、来て寝てる晴希にチューしたっていいだろ?」
「……まったく。勇也のポジティブには感心するよ。会いたくなったら、来ることにするよ」
「そうして。晴希、帰る前にもっかい」
「ん」
香野は、小鳥遊をしっかりと抱き寄せて、その柔らかな唇が自分に触れるのを楽しんだ。
☆
二人が行こうとしているのは、赤いゼムクリップが有名な、日本一の文房具店だ。
銀座のビルが有名だが、すぐ近くにもう一つビルがある。万年筆の看板が目印だ。
土曜日の10時。
わざわざ、一度自宅に戻って身支度をしてから、駅前で待ち合わせた。約束をして会うのは、なんとも照れ臭かった。
私服も、さして珍しいわけではないはずだったが、スーツでもない部屋着でもない服装というのは、案外見ていないものだったらしい。
香野は、紺のシャツにサンドベージュのチノパン、こげ茶のボデイバッグにこげ茶の靴。小鳥遊は、白に淡い花柄のシャツにチャコールグレーのカーディガン、デニムに黒のスニーカー、黒の斜め掛けバッグだった。
小鳥遊は、香野の顔を見た瞬間に、自分の服装の良しあしが気になって俯いた。香野は、すぐに小鳥遊の傍に近寄って、すっきりしていてよく似合うと伝えた。あっと顔を上げた小鳥遊は、香野のウインクにつられて笑った。
少し、臆病にもほどがあるよなと言って、香野と一緒に笑いあうことができた。
文房具ビルの攻略は、香野のナビゲーションで進んだ。
小鳥遊は、後ろをついて歩き講釈を聞き、試し書きをしてみろと言われれば、素直に手を出してみた。いくつか試して、好き嫌いがあれば伝えた。
自分の好みを知りたいと思ってくれているのなら、素直に正直に答えるが吉だ。
そして、12階建てのビルをぬけて、次のビルに入った。
「本日のメインイベントは、こちらです」
そう促されて入ったフロアは、まるで美術館のように美しい。そして、並べられた万年筆は、どれも一級の工芸品だ。
香野は、ショーケースの中の万年筆を、熱心に見つめている。
「こういうのって、誰でも使えるようなもんじゃないだろ?すごくきれいだけど、とにかく高い。それに、日用品にするにはもったいない気もするし。俺は、もっと万年筆を普通に使って欲しいんだ。少しずつ使いやすいタイプも出始めてるんだ。いつか、万年筆担当になる」
万年筆から小鳥遊に視線を移して、香野は自分の目標を、語った。
「目標があるってのは、いいもんだな」
「うん。万年筆の担当になったら、晴希にプレゼントする」
「え?」
「俺が、売る万年筆の中で、一番ぴったりなのを、晴希にプレゼントする」
小鳥遊晴希は、危うく涙がこぼれそうになった。実際、目の前が涙で曇って良く見えない。
香野は、素早く周囲を確認して、小鳥遊の目じりを親指でぬぐった。
「店員さんは、行儀がいいからきっと見て見ぬふりをしてくれる」
にやりと笑う香野に、小鳥遊も精一杯平気な振りをしてみせた。
それから、ぐるりと回って店を出て、大きな交差点を見下ろすパーラーで、食事をした。
果物がふんだんに使われたサラダとパストラミをたっぷり挟んだサンドイッチは、驚くほど旨かった。
「晴希、これ旨いな!」
「な。旨い。しかも、男二人でもあんまり違和感ない。老舗だから?かな?」
「かもな」
遠くのテーブルには、お茶を飲んでいるお洒落な老人男性二人連れがいる。いわゆる「大店の旦那さん」というやつかもしれない。
さすが銀座だ、じーさんのお洒落も板についていると、香野が感心するように呟いていた。
普段の生活では、考えられないような高級フルーツを沢山食べて、二人の空腹はすっかり満たされた。
ぶらぶらと、二駅ほど歩いて、それから電車に乗った。
最寄り駅を出て歩き始める時、香野はつい小鳥遊の眼を見てしまった。いい?と聞きたくなったのだ。何も言わなくても、小鳥遊は小さく頷いた。そして、照れ臭そうに横を向いてしまった。
そのまま、黙って歩き始めた。香野の家に向かって。
香野は、期待で顔が熱くなるのが恥ずかしくて、いつもより口数が少ない。ちらと小鳥遊を見れば、少し遠くを見ながら、機嫌よく歩いている。本当は、手がつなぎたい。
自分の横を、自然に歩く小鳥遊が、一層可愛くて困った。
☆
玄関の扉を閉めて、靴を脱いだばかりだ。なのに、香野は小鳥遊を抱きしめている。
「ちょ、…っと待てって」
「ん」
生返事をするばかりで、香野はその腕を緩めない。小鳥遊は、軽い溜息をついた。
帰り道、香野が自分を見る目がどんどん甘く熱くなっていることは、わかっていた。気づかないふりをする方だって、大変なのだ。
それでも、自分を欲しがる男が愛おしい。
「勇也」
優しく声をかけて、背中をぽんぽんと叩くと、香野はやっと腕を緩めて顔を見せた。
「そんなに焦らなくても、俺はお前んだろ?」
少しは、色っぽく見えるだろうか?小鳥遊は、その大きな目を少し細めてみた。
香野の唇が、ゆっくり近づいてくる。
そうだ、俺はお前のものだ。お前に欲しがられて、しびれるくらい嬉しいんだ。
玄関から数歩のところで、二人は深いキスをした。
そのまま、風呂場に引きずって行かれそうになって、辛うじて小鳥遊は自分を取り戻した。
「シャワーは、一人で行かせてくれ。汚れてるんだ」
「そんなこと、ないのに……」
不満気に、香野が口を尖らせる。
「ちゃんときれいになってから、お前んとこに行きたいだけだ。頼む」
穏やかにそう言えば、香野はちゃんと小鳥遊の思いを汲み取ってくれる。
「んじゃ、先にすませる」
わかったと、香野は小鳥遊の額にキスをした。
一人残った小鳥遊は、ほっとしながら無性に照れくさかった。香野のために、きれいになりたいなんて。これから起こることに、期待しすぎてるんじゃないかとも思う。
でも、やはりきれいにしておきたい。どこを触られてもいいように、しておきたいのだ。
交代でシャワーを済ませた小鳥遊が、脱衣場のバスタオルを掴むと、置いておいたはずの服がない。
……勇也っっ!しょうもないことすんなっ!!
心の中で罵倒しながら、バスタオルを体に巻き付けて、部屋に向かった。
扉をあけると、薄いカーテンごしの日差しと影が香野の背中に当たっている。
「勇也!なんで服…」
ゆっくり振り返った香野は、悪い顔をして目を眇めている。
小鳥遊は、その目に捕まって黙ってしまった。すると、立ち尽くす自分に向かって香野の手が伸びる。
恐る恐るその手に手を重ねれば、ぎゅっと握られて引き寄せられた。
もう、怒っていたのか、困っているのか、怖いのか、嬉しいのか、恥ずかしいのか、その全部なのか、わからない。判断力が、全て吹き飛ぶ。
「晴希」
「なんだよ」
「可愛くない返事してると、可愛がっちゃうよ?」
「可愛く返事したら、どうすんだよ」
「もっとかわいがる」
「……っ!」
何をばかなことを言ってるんだと、文句を言おうと顔を向けたところで顎を掴まれた。
熱い目が、小鳥遊の眼を捉える。
……ああ、キスが、くる
そう、思うだけで体が熱くなる。
期待どおりに、香野は優しく甘く唇を合わせてくる。小鳥遊は、自分の内側の、どことも言えないところが、溶けて緩んでいくのがわかるようだ。
……勇也、好きだ
目をとろんと潤ませて、小鳥遊は香野のキスを受け止める。厚い柔らかい舌が、自分の中を蹂躙するにまかせている。
ちゅうっと最後に下唇を吸って、香野の唇が離れた。
「晴希、すっごい可愛くて、エロい顔してる」
「お前の、せいだろ?」
「俺の?晴希は、俺のんだから?」
「そうだ。お前のもんだ。据え膳だぞ?」
「いっぱい触っていい?」
香野の手が、タオルの裾から潜り込んで腿を撫でる。
「そう、してほしい。もう…」
小鳥遊は、香野の首にすがりついた。その体を、強く擦り付ければ、どうなっているかなどすぐに伝わる。
真顔になった香野は、力強く小鳥遊を押し倒した。
「嬉しいけど、こんなエロいの反則じゃね?今日こそ、止められないかもよ?」
「止めなくて、いいんだ」
「殺し文句だな」
覆いかぶさるように、また唇を重ねる。互いの背に回された手が、互いの体を際限なく撫でまわす。許されているからこそ、できることだ。
肌を、筋肉を、骨を感じて、その体に正直に欲情する。その熱が、また相手の熱を増幅させて、二人を包む繭の温度を上げていく。
二人が一つになれるまで、あとほんの少しだ。
どうやったら、その距離は縮まるのか。香野は、熱い肌を撫でながら、最後の扉をどうやって開けたらいいのか、そのきっかけを探っていた。
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