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第8話 種あかし

 地球の自転と公転は、容赦なく一日一日を経過させる。 少々大げさに聞こえるかもしれないが、香野と小鳥遊の目の前に、金曜日は必ずやって来る。 そして、小鳥遊は香野の家を訪れる。  香野の家に通うようになってから、小鳥遊の寝床は、食卓脇の小さなスペースだった。壁際に貼りつくように布団を敷いて、そこで寝ていた。 互いを思いあっていた事がわかってからも、その場所に寝ていたら、隣に寝てくれと香野にねだられた。もっと言えば、家に居てくれるのは嬉しいが、別々の場所で寝るんじゃ淋しいと、泣き落とされたのだ。 仕方がないなと答えながら、小鳥遊は嬉しくて堪らなかった。すぐ近くで、待っててもいいと言われているのだ。誰もいないのをいい事に、盛大にニヤケながら寝床を作る。ついでに、香野の布団も整えておく。 布団に入って、本を読んだりスマホをいじったりしているうちに、香野が帰ってくることもある。いつ帰ってきたのか、わからないことも多い。どちらにしても、朝起きると隣に香野はいてくれる。もしかしたら、寝ている自分の髪にキスくらいはしているかもしれない。 いつまで、この関係を続けてもらえるかはわからない。でも、しばらくは大丈夫だろう。小鳥遊は、喜びと安心をもらった。だから、金曜日の晩には香野の部屋で寝る。 香野が帰ってくるはずの部屋で、小鳥遊は安心して目を閉じた。 ☆  終電間際の電車内は、いつも以上に混んでいる。金曜日だから仕方がない。疲れとアルコールのごった煮のようなサラリーマンと学生が、空っぽな目をしてつり革に捕まっている。 香野は、小鳥遊のことを思う。 最近、少し行き違いがあるような気がする。 小鳥遊は、口では色々言いながら、肌を合わせるとひどく従順だ。 それが、香野を不安にさせる。気が付かないうちに、何か強要するような態度をとったのではないかと思ったのだ。でも、どうやら、そうではないらしい。 小鳥遊は、自分が信じられないらしい。 香野に好かれている自分、求められている自分が、本当にここにいるということが、信じられないようだ。 だから、跳ねた脚がちょっとぶつかったり、反射的に体が引けてしまった時に、ひどく狼狽える。そして、即座に謝ってしまう。 まだ、最後までできていないからだろうか? その事で、小鳥遊は委縮しているのだろうか。申し訳ないと思っているのだろうか でも、そんなのはおかしい。 小さな思惑のずれや反応の強弱は、あって当然だ。どちらかといえば、嬉しいものだ。仕掛けた動作に、どう反応するのかを見つめてしまうのは、少しでも良くなってほしいからだ。なのに小鳥遊は、自分の事は二の次で、香野の様子ばかり気にする。そんな様子が、いじらしくて切なくて、少し腹立たしい。 過去の事は、聞かないと決めている。 知らないままで、目の前の大事な人の気持ちをほぐしていきたい。そのために、何度も何度も可愛いと、好きだと伝えているつもりだ。 それだけでは、信じられないのだろうか?それとも、それだけでは越えられないような、何か大きな傷があるのだろうか?  今週も、小鳥遊は香野の家に泊まりにきているだろう。 とにかく、通ってきてくれているうちは、大丈夫だと思っている。小鳥遊の待っていてくれる家に、早く帰ろう。 ☆  翌朝、香野は目の前に小鳥遊が眠っていた空の布団を見つけた。 いつもなら、特に気にしたりしないで枕を抱きしめたり、小鳥遊の布団に転がって行ったりして、しばらく寝起きのぼんやりした時間をすごす。 でも、今日はすぐに顔が見たかった。 寝起きのひどい状態だけれど、小鳥遊を見つけようと部屋を出た。 「あれ?勇也、早いな……って、まるで目が開いてないし。無理しないで、寝とけばいいのに」 「はる、き、いた」 「いるよ。ちゃんといる。さっきまで、隣で寝てたよ。ふらふらしてるから、布団に戻った方がいい…っ!」 香野は、小鳥遊に倒れ込むように抱き着いた。 小鳥遊は、しっかりと抱きとめてくれた。しょうがないなと溜息をついて、背中を撫でてくれた。 「昨日も遅かったんだろ?寝不足は良くない。布団に戻れ」 「水、飲みたい」 はいはいと答えた小鳥遊は、香野に抱き着かれたまま器用にコップに水をくんだ。 「水。このままじゃ、飲めないから。ほら」 ぐいっと体を離されて、香野はようやくコップを受け取った。ぐびぐびと飲んで、トイレとつぶやいて、ふらふらと歩いて行ってしまった。 まったくどうしたのかと、小鳥遊は盛大に溜息をついた。  コップをゆすいでいると、香野がタオルで髪を拭きながら戻ってきた。眠気覚ましに、頭から水をかぶったらしい。 「おはよう。どうした?朝は弱いんだから、寝てたらいいんだ」 「晴希の顔、見たくて」 「心配しなくても、ちゃんと居るよ」 「俺も」 「?」 「俺も、心配しなくても、ちゃんと晴希が好き。晴希が一番大事、晴希……」 一歩ずつ近づいてきた香野は、両腕でしっかりと小鳥遊を抱きしめた。 「勇也……?」 「なぁ、何か困ってるなら、言って?無理させてるなら、教えて。俺が、晴希の体ごと欲しいのが、辛いなら……」 「何、わけわかんない事言ってるんだ。そんなわけないだろ」 「じゃ、何で……」 「何?」 「……すぐ、謝るじゃん。してる時」 「……」 腕の中の小鳥遊は、黙ってしまった。 香野は、香野で動けない。失敗したと思っている。 ……これじゃ、責めてるみたいだ。何か言わなきゃ、やばいやばいやばい…… 迷っていると、小鳥遊が腕をつっぱって、香野の体から離れた。 「晴希?」 俯いて、顔もあげてくれない。香野は、本格的に焦り始めた。もう一度と、小鳥遊の腕に手を伸ばす。 腕を掴まれても、小鳥遊は逆らわない。こういう時、不安の種だった従順さにほっとするのは卑怯なんだろうけれど、香野にもどうしようもない。 「俺、すぐ謝る?」 ……喋った。 香野は、ほっとして大きく深呼吸をした。 「いや、あの、無理させてるかなって……」 「だからっ、すぐ謝るのか?俺がって聞いてんだよっ」 「……うん」 「いつ?どんな時?」 俯いていたはずの顔は、香野を正面から睨んでいる。怒っているなら、それでいい。そのエネルギーのままに本当のことを言ってほしい。 「だから、してる時。俺の腕に晴希の膝がぶつかったり、ちょっと体が逃げちゃった時とか、声出ちゃった時とか。全部、嬉しいことばっかりなのに、晴希は謝ってばっかで。もっと、わけわかんなくなってくれていいのにっ」 「……嬉しい?」 眉をしかめて、小鳥遊は香野をいぶかし気に睨む。その目が、「そんなわけあるか」と言っている。 「嬉しいんだよっ。俺が何かするだろ?気持ちよくなってほしいなってさ。でも、それが当たりかどうかは、反応してくんなきゃわかんない。だから、全部嬉しいことなんだよ。勃ってりゃいいってもんじゃないだろっ!」 小鳥遊が、一気に顔を赤くして香野に向かって叫んだ。 「……このっ……バカがっ!!!」 「やったー」 香野は、小鳥遊をもう一度抱き寄せる。負けずに、小鳥遊は香野に文句を言い募った。 「何喜んでるんだよっ!バカだろお前っ!」 「バカでいい。ちゃんと言えるじゃん。晴希。な?大丈夫だから。あちこちいっぱい可愛がってどろどろにするから、謝ったりしないで」 「ほんとにバカだ」 「だって、晴希が可愛いんだ」 その一言で、小鳥遊から怒りのエネルギーがぷしゅっと抜け出ていった。 「……なぁ、俺、そんななんだな?そりゃ、めんどくさいよな」 「めんどくさくない。そうじゃなくて、すぐ謝っちゃうし、俺がすることで嫌がられたことないから、本当にいいのかなって。晴希は、ちゃんと気持ちよくなれてんのかなって心配になっただけ」 「ああ……そういう事か」 大人しくなった小鳥遊は、香野の肩に頭をもたせかけて、両腕を香野の腰に回している。 「なぁ、勇也」 「ん?」 「ちょっと、話せる?」 「もちろん」 小鳥遊は、香野の体からそっと離れて、お茶を淹れるよと笑顔を見せた。  食卓に、お茶をいれたマグカップを置いた。香野は、いつも自分が座る椅子に座っているけれど、小鳥遊は机に寄りかかって立ったままだ。 「晴希……?」 「うん。ごめん。話しがあるって言っといて、なんて言っていいか、わかんなくて」 「気持ちを言葉にするのって、難しいしな」 仕方がないよと、香野は笑ってみせる。小鳥遊は、一つ大きく深呼吸をして、手元のマグカップを食卓に置いた。 過去のことは話さずにいようかと思っていたけれど、結局自分の態度に出てしまっているなら、意味がない。取り返しがつかないことになる前に、できる範囲で説明したほうがいい。小鳥遊は、そう覚悟して、口を開いた。 「離婚した時にね…」 話しながら、小鳥遊は椅子を引いて腰かけた。香野は、小鳥遊の手を見つめた。食卓の上で握りしめられた拳は、小さく何度も握り返される。 「離婚した時、俺、夜、役にたたなくなってて」 「晴希……」 香野は、小鳥遊の手を握りしめる。 「あ、ちょっと嫌な話しなんだけど、よかったら、聞いてもらえると、いいかな」 「無理は、すんなよ?」 わかったと小鳥遊は、小さく頷いた。 「色々あって、元奥さんとはできなくなってた。その後も、誰かで試すこともできなくて、そのままになってて。でも、勇也のことを思うようになって、そしたら、その、なんというか…」 「元に戻った?」 「ああ、そうだな。そういう事。まぁ。勇也的にどうなのよってのはあるだろうけど、そこはOKみたいだったから、結果オーライってことにしといて。そんなんで、ちょっと苦手意識があるっていうか、どっちの立場になるにしても、満足してもらえるのかなっていうのが、すごく気になってる。多分、無意識に謝ってしまうのは、そういう事じゃないかなと、思う」 つっかえながら、話しにくいことを伝え終えた小鳥遊は、細く息を吐いて、お茶を飲んだ。 「少し、聞いてもいい?」 「いいよ」 何?と目をあげて、小鳥遊は笑ってみせた。少し目じりが下がって、少し悲しそうだ。 「意地の悪いことを言われたとか、痛いことされたとか?」 小鳥遊は、眼を泳がせて、しばらく逡巡していた。どこまで言うべきか、何なら言えるか、言葉を探しあぐねているようだ。 「……ケガしたりとかってのは、ない。ただ、目的が違ってた。俺は、好きあって結婚したんだから、もう少し奥さんと仲良くする時間が欲しかった。でも、彼女は違ったんだ。気持ちはいらなくて、子どもが欲しかったんだ」 「そんな……っ!」 香野は、喉がひきつれるようで、咄嗟に言葉が出ない。気持ちはいらないなんて、そんな事があるのか?仮にも夫婦だろう? 「俺も、子どもがいらなかったわけじゃない。できたら嬉しいとは思ってた。でも、そのためだけにするのは、どうしても理解できなくて。体が応えられなくなってた」 当然だとでも言うように、香野は小鳥遊の眼を見て強く頷いた。握った手は、そのままに。 「だから、そういう時だけ極端に言う事を聞くって勇也が感じたのは、多分当たり。勇也に、その事で嫌われたくないんだ。もう、淋しいのは……嫌なんだ」 淡々と話す小鳥遊の目は、潤んで今にも涙がこぼれてきそうだ。 香野は立ち上がり、小鳥遊の手を引くと乱暴に抱きしめた。 「何でだ。何で、晴希が泣かなきゃいけないっ。好きなら、気持ちが欲しい。気持ちもないのに、体だけなんてそんなの嫌だ。気持ちがあるから、こうやって、抱きしめたいんだ。晴希、誰にもやらない。どこにもやらない。俺の晴希だ」 香野の手のひらが、小鳥遊のシャツを握りしめる。やり場のない悔しさと怒りと、晴希を労わる気持ちがごっちゃになっている。小鳥遊は、その力強さが嬉しい。所有の宣言すら、嬉しい。小鳥遊は、濡れた瞳を香野の肩に擦り付けた。 「勇也、ごめん。こんな事、誰にも言えなくて。俺がおかしいのかなとか、もう、誰も好きになっちゃいけないのかな、とか……」 「そんなことない。なぁ、晴希、俺のこと、好き?だろ?」 「好きだ。勇也が、好きだ。俺を好きになってくれたからじゃない。勇也を好きになったから、俺はまだ生きていられると思ったんだ」 「全部、くれ。丸ごと、俺に、くれ。俺の晴希になって」 「もう、全部お前んだよ。最後まで、お前のものだ」 涙声の小鳥遊は、そっと香野の頬に唇を押し当てた。 香野は、その体を抱えるようにして、大股で風呂場に向かった。 「晴希、ちょっと、待ってて」 香野は、ざっと服をぬぐと風呂場に消えた。待つって?と首を傾げていると、すぐに扉が開いた。シャワーの音と湯気が脱衣場にあふれる。 「脱いどいて」 「え?や、だから、シャワーは一人でって…」 「途中までだから」 そう言って、香野はまた扉を勢いよく締めた。何をどうしたいというのだろう。でも香野は、小鳥遊のゆずれない線はわかっているはずだ。無理強いもされないはずだ。小鳥遊は、服を脱いで風呂の戸を叩いた。  扉が開くと、手首を掴まれて風呂場に引き込まれた。 香野は、全身濡れて片手にシャワーを持っている。 「ちょっとだけな」 そう言って小鳥遊を抱き寄せると、首から背中にかけてシャワーの湯をかけていった。そして、シャワーを移動させながら、小鳥遊の体中を撫でる。 肩に唇をあてて、そのまま鎖骨と胸を吸う。降り注ぐシャワーの湯は暖かくて、小鳥遊の体を撫でる香野の手のひらは、際限なくやさしい。 「勇也、もう、そのくらいに、」 「ん。あと、これだけ」 シャワーをフックにひっかけて、ボディソープを手にとると、中心を優しく包みこんだ。 「バカっ!そんなとこ……」 引けそうになる腰を、香野の片腕がしっかりと抱き寄せる。 「ここまでだから、洗わせて」 耳元でささやかれて、小鳥遊の腰がまた逃げようとするけれど、強い腕が逃さない。その間も、香野の手が中心を撫でさする。くびれも先も付け根も何もかも。 「……んんん、な、ばか…」 ボディソープのおかげでわからないけれど、きっと先から滴が垂れている。小鳥遊は、恥ずかしくて気持ちよくて、思わず香野に縋りつく。 「可愛い、そう、上手……」 香野は、耳元で甘く囁いて、小鳥遊の体を溶かしていく。淋しさを恐れるあまりに、香野に気に入られようとしてしまう気持ちを、洗い流していく。 「んんん…ゆ、う…」 小鳥遊は、香野の頬を両手で包んでキスをねだる。応える香野は、小鳥遊の舌を存分に吸って舐めて唇を甘噛みして、口内をなぶる。 上も下も撫でられて、小鳥遊の膝から力がぬけそうになる。 「ごめん。ちょっとやり過ぎた。ここまでな」 香野は、そう言って中心から手を離すと、またシャワーの湯をかけて小鳥遊の体をすすぐ。 浴槽に寄りかかるように座らされると、シャワーの湯が止まった。 はっと小鳥遊が目をあげると、にんまりと笑う香野がいる。 「先に部屋に行ってるから」 ちゅっと頬にキスを一つ落として、香野は行ってしまった。  扉の締まる音がして、香野の足音が遠ざかった。 小鳥遊は、すっかり蕩けた頭を二、三度振って、正気を取り戻した。それから、準備をした。 ……自分は、男なのに何をしてるんだろう。男だから、必要なんだろう?ちょっと不便だ。でも、必要だ。なぜ? 香野と、一つになりたいからだ。優しいだけじゃなくて、強さも感じたいからだ。自分の全部をさらけだして、それでも香野に欲しいと言われたいからだ。  愛とは、たまにひどく浅ましい。

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