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第10話 向き不向き

 恐ろしく甘くて、熱くて、どうにかなってしまうのではないかと思うような時間を過ごした。 脱力してしばらく動けない小鳥遊は、香野にあちこちきれいに拭いてもらって、最後に触れるだけのキスをもらった。 「ちょっと、横になってな」 そう言って、寒くないようにと布団をかけて、香野は風呂場に行ってしまった。  小鳥遊は、大きく深呼吸をして、目を閉じた。 朝起きてから、今までのことを振り返ってみると、気持ちの振れ幅が大きすぎてまるで別の日のことのようだ。自分の過去に、本当に何があったか。そんな事は言えないし、香野も聞く気はないだろう。別れた妻を、悪く言わないでくれたのも、ありがたかった。もう、誰かを責める言葉は聞きたくない。 そんな事よりも、今は幸せに浸ろう。うとうととしながら、午前中という背徳感の中でのあれこれを思い出す。あっという間に浮ついた気持ちで満ちる自分を、現金なものだと笑ってみたりした。 しばらくすると、さっぱりと洗いあがった男前が様子を見に来た。 「動けそう?」 「ん」 引っ張ってくれと両腕を伸ばせば、香野はその手をしっかりと掴んで、引き起こしてくれた。そのまま手を借りて、ゆっくりと立ち上がると、頭からTシャツをかぶせられた。 「脱いだら、そのまま洗濯機でいいから。風呂、行ってきな」 小鳥遊は、返事の代わりににっこりと笑って見せた。  そのまま、のんびりと土曜日を過ごし、寄り添って眠った。 日曜日の朝には、なかなか目が開かない香野の額や鼻の頭に、小鳥遊が沢山キスを落として、構って遊んだ。 そのくせ、朝食を済ませると、さっくり帰ってしまった。 香野は、残りの時間をどう過ごせばいいのか、わからない。小鳥遊のいない休日を、今までどう消化してきたのか、思い出せない。 しょうがねぇなと自分に突っ込みながら、二日ぶりに煙草に火をつけた。深く吸うと、くらっと目まいがするようだ。 そういえば、ポトスはどうしたかと部屋を見渡すと、定位置にいない。もしやと窓を開けてベランダをのぞけば、ちゃんと居て、鉢から水がしみだしている。帰る前に、水やりをしていってくれたのだ。 ……俺もこいつも、晴希がいないと生きていけねぇな。淋しい同志で仲良くやるか。 香野は、咥え煙草でポトスの葉を整えてやることにした。  小鳥遊は、着替えの入った袋をぷらぷら下げながら、いつものサンダルひっかけて歩いている。 これから、家に帰って洗濯機を回しながら掃除をする。冷蔵庫の中身を確認して、必要なものがあれば買い出しに行く。 ついでに、本屋によって小説の棚を物色してみる。そういえば、香野に料理を教えると言っておいて、餃子以来何もしていない。平日簡単にできるようなメニューを何か探してみるのもいいかもしれない。 小鳥遊は、一日の予定を組み立てて、自宅に帰ると同時にその計画をスタートさせた。  日曜日の朝10時。それぞれの時間を迎えて、互いの心中は離れているようで繋がっている。香野が、それを知るのは、もう少し先だった。 ☆  そっけなく別れた小鳥遊から、今までになくメールが届くようになった。例えば、お勧めの簡単夜食メニュー。例えば、今朝の道路事情。例えば、面白かった苦情電話の内容。どれもささやかな内容ながら、伝えたいと思ってくれている事が、香野には嬉しい。 なので、メールを開くたびに、口元がだらしなく緩んで仕方がない。 社内の休憩室で、煙草片手にメールを読んでいたら、同僚に「顔!」と突っ込まれたほどだ。 「香野くーん?何がそんなに嬉しいのかしれないけど、どんな可愛い彼女できたの。写真とかないの?」 「ないし。あっても見せないし」 「おっ。何、可愛い?いい子?」 「可愛いよー。ちょっと年上で甘えんのが下手なんだよ」 「お姉さんかー。それもいいけど、だったらあんまり待たせちゃ悪いんじゃないの?」 「何を?」 「結婚だよ」 「あー……俺はいいんだけど、バツイチなの気にしてんだよなぁ」 「え?子どもとか?」 「いや、いない」 「じゃ、男の余裕で待ってあげてるってわけだ」 「そんなんでもないけど。なんでもいいの。俺のだし、可愛いし」 「はいはい」 呆れたように返事をした同僚から、幸せものは仕事しろっ!とばかりに、休憩室から追い出された。 さて、仕事仕事と、自分のデスクに戻る。 午後の予定はと、スケジューラーを立ち上げれば、今日は水曜日だと画面が示す。水曜日は、小鳥遊はたいてい残業になる。開庁時間が延長されているのだそうだ。市民のための市役所ではあるが、小鳥遊にあまり無理はさせないでほしいと思う。とはいえ、自分は都内の職場にいて、市役所にはほとんど行ったこともない。 晴希、何してんのかなって仕事だよな……と自分に突っ込みながら、香野は自分の仕事を再開した。 ☆  小鳥遊の仕事は、いわゆるなんでも屋で、総合窓口相談係だ。専門はなく、広く浅く、市民の相談や問い合わせに合わせて、担当窓口を案内する。なぜ、こんな仕事が必要かというと、市役所の職員にとっては当たり前な課ごとの割り振りも、市民にはまったくわからないからだ。 辛うじて、住民票は市民課、出生届は戸籍課くらいは浸透しているが、それ以外となると、どの窓口に行ったらいいか皆目見当がつかないらしい。すると、自然と市民課に集まってしまうのだ。 市民課の職員からすれば、本当に対応しなければならない利用者以外の市民を、失礼なくトラブルなく捌くための時間も人ももったいない。 そこで、所内から数名が集められて、総合窓口ができたというわけだ。 最初は、デパートのインフォメーション係の如く、お客様はこちら、お客様はそちらと、案内をすればいいと思っていた。しかし、実体はほど遠い。 単発の目的で来る市民は、誘導もたやすい。そうではなく、複雑な事情を抱えて、どこに行ったらいいかわからない人たちがいるのだ。よく話しを聞いて、本人にもわかっていない目的や問題点を示してあげる必要がある。そうして、洗いだした相談内容によって、どの課で何の手続きをする必要があるかを、説明していかなくてはならない。  小鳥遊は、もともとはごく普通の職員だ。総合窓口への配属も、特別に何かを期待されていたわけではない。多少、民法に明るいくらいだ。 ただ、一度調べたり問い合わせたりした事を、よく覚えていた。記録もしていた。なので、やればやるほど手続きに詳しくなって、処理までの時間が短縮された。各課の職員とも顔なじみが増えて、話しが通りやすくなった。要するに、相談者を手早く捌けるようになったのだ。 そうなると、徐々に難しい相談者が、小鳥遊に回されるようになってきた。複雑で、苦しくて、切ない人生の一部を覗き見てしまう事もある。それでも、市役所のできることには限りがある。その範囲の中で、とれる方法を一緒に考える。警察やNPOに相談をした方がよければ、紹介する。 一つ一つ、目の前にある限り丁寧に話しを聞いて、ベターな方法を考える。結局、そんな事しかできないのだと、小鳥遊は知っていた。当事者にはなれないし、なってはいけない。そして、終わったら引きずらないようにと、心がけた。 今日もまた、難しい相談の約束がある。シングルマザーで子どもが三人。名目は、市営アパートの空きはないかという事だが、きっとそのままお金の相談になるだろう。色々な補助や免除の制度があるが、知らない家庭も多い。そもそも時間と心に余裕がなくて、調べる気にもなれないらしい。考えられる資料を集めて、時計を見る。約束の時間まで、あと15分ほどある。 小鳥遊は、席を立つと休憩室でお茶を買った。 窓際には、小さな鉢植えのサボテンがいる。ぐっとお茶を飲んでから、サボテンの写真を撮った。どアップで撮ったサボテンは、棘と棘の間の緑の質感もくっきり見える。最近のスマホ内蔵カメラの画質は、不必要に良い。 メールに添付して、香野に送った。 「小さくても、棘は痛い」と。 一日の仕事を終えて、自宅でメールを開くと、返信があった。ポトスの葉の写真が付いていた。 「ばんそこ貼れよ。こいつも、晴希に会いたいってさ」 ポトスにかこつけて、可愛いことを言ってくる。小鳥遊は、にっこり笑って「おやすみ」と送った。 こんなやり取りを、迷惑じゃないかと気にせずに送れるようになったなんて。小鳥遊は、小さな積み重ねが嬉しくて仕方がない。 こうやって、小さな嬉しいが貯まるころには、また週末が来る。 ☆  仕事を終えた香野は、夜道を大股で歩いていた。角を曲がれば、自宅のアパートが見える。足早に歩いて、いつものように自宅の窓を見上げると、明かりがついていない。 家に居ると信じて疑って居なかったのに。小鳥遊は、来ていないのだろうか? 階段を駆け上がって、玄関を開けて、照明をつけた。台所を見れば、鍋がコンロに乗ったままだ。食卓には、器も用意されている。 どう見ても、料理の途中だ。どうしたのかと、スマホを見るけれどメッセージらしきものはない。 小鳥遊の家に行ってみようと、靴を履きなおしたところで、玄関の鍵を回す音がした。 振り返ると、すぐに扉が開いて、片手に正方形の保存パックを持った小鳥遊晴希がいた。 「……あ、勇也。おかえり。早かったんだな」 「晴希…良かった。何か、あったかと思った…」 「悪い。ちょっと忘れ物して、家に戻ってた。あ、の、飯は?」 「食べるっ!」 香野は、勢いよく返事をした。小鳥遊は、ちょっと驚いて、それからにっこりと笑って、玄関先の香野を追い立てて中に入った。 「じゃ、風呂済ませて来い。久しぶりに、一緒に食おう」 香野は、その笑顔と言葉に、ほっと安堵の溜息をついた。 「その前に、ちょっとぎゅーってさせて」 「は?」 何を言っているのかと反論する前に、香野は小鳥遊をしっかりと抱き寄せた。 「……あ、あの、心配、した?」 「するだろ?そりゃ。良かった。晴希も、仕事お疲れさん」 「俺、愛されてんな?」 「いつも言ってんだろ?」 香野は、小鳥遊の額にちゅっとキスをして、その体を解放した。 「風呂、行ってくる」 小鳥遊は、自分でも驚くほどに嬉しくて、緩む顔を引き締めたくて失敗した。しょうがないなと、苦笑いをするしかなかった。  15分ほどで、香野は台所の小鳥遊の隣に舞い戻っていた。洗い髪から、滴がたれると文句を言われても、意に介さずに貼りついている。 「ほら、煮物よそうから。危ないって」 「はーい」 鍋には、鶏手羽と大根が湯気を上げている。深皿によそって香野に手渡すと、香野は深々と湯気を吸い込んだ。 「うーまーそー」 「座れよ」 食卓には、よそったばかりの煮物と、ポテトサラダ、漬物が並んでいる。 「俺、今日結構早く帰ってきたよな?サラダなんて、作る暇ある?」 「ポテサラは今朝作って冷蔵庫に突っ込んどいたのを、持ってきた。さっき持ってただろ?」 「ああ!あの四角いパックがこれか。晴希が作ると、マスタードと胡椒が効いてて旨いんだよな。いっただきますっ」 「いただきます」 熱い煮物とねっとりとしたポテトサラダは、みるみる内に香野の胃袋に消えていく。 「なぁ、晴希」 「ん?」 「料理、好き?」 「旨いなっつって食ってるのを見るのが、好き」 「俺が?」 「そう。この間送った、めちゃくちゃ簡単な料理、やってみた?」 「あれな。一回やってみたけど、なんか違うん気がするんだよ。後で教えて」 「わかった。……あの、メールなんだけど、気が向いたら送ってるんだけど」 「な。最近メール増えたの、俺、嬉しくって」 へへへと香野が笑うと、小鳥遊が困ったような照れたような顔をして、俯いた。 「ああ、その、気分転換とか、暇つぶしとか、に、なれば、いいっかなって」 「すっごい楽しみ。俺、会社ですげー可愛い年上の人と付き合ってて、可愛いメールくれるってことになってるし」 「はぁ?なんだそれ」 「休憩室で読んでたら、何か顔がデレデレしてたみたいでさ。彼女?って聞かれたから、可愛い人って言っといた」 「限りなく間違いに近いけど、彼女って言われるよりは、数倍ましな答えだな」 「間違いじゃないじゃん。晴希、可愛いし。でもさ、いい答え方だろ?可愛い人って」 「あー…自分の事じゃなかったら、100点満点なんだけど……」 耳を赤くして、また小鳥遊が俯く。 「はーずかしーなー。なんなの?俺ら、単身赴任中の新婚さんとかなの?はー……」 そのまま、両手で顔を覆ってしまった。 「いいじゃん、それで。週末には集合して、こうやって飯食って、いちゃいちゃして、晴希はリラックスして、俺は沢山甘えてウハウハで」 「やらしいおっさんみたいに言うなっ!」 「なんだよ。可愛いくせに」 「……わかったよ。とりあえず、その、職場はそういう事にしといてくれ。あと、煮物が冷めるっ」 香野は、にやりと笑って、改めて箸をとった。  俺の可愛い人は、実は年上のかっこいい男で、料理も上手。金曜日にこうやって帰ってこられるところを見るに、きっと仕事もできる。俺に愛されてるっていう実感も、やっと持ってくれた。だから、メールの数も増えた。嫌われるんじゃないか、引かれるんじゃないかという疑心暗鬼の心を、やっと捨ててくれたらしい。 照れる小鳥遊を見つめながら、漬物をかじってコップに残っていた酒を飲む。小鳥遊も、漬物をつつきながら同じ酒を飲んでいる。ついでに、市役所に来た見当はずれのクレームについて、ぽつぽつ話をしている。相槌をうちながら、晴希の左手を握ってみた。 「ん?なに?」 「いや。右手は箸持ってるけど左手は空いてんなと思って」 「っつーか、これじゃお前が箸持てない」 「じゃ、漬物一個。入れて」 香野は、口をぱかっと開けた。 はぁ?という顔をした小鳥遊も、しょうがないなと苦笑いしながら、漬物を一切れその口に放り込んだ。 「ありがと。なぁ。晴希。俺はすっごい晴希が好きなんだけど。まぁ、だから、こんな風に手ぇつないだりするんだけど」 「うん」 「うっとうしい時は、言っていいんだからな?今は、やめろとか、それは嫌だとか」 「……ん?だったら、風呂上りは、ちゃんと髪を拭け」 「そうだった。でさ、晴希も、俺も、したい事して、そんで、された方が違うなって思ったら、言えばいい。言わなきゃわかんないし。勝手に遠慮すんの、なし」 「この間も、同じようなこと、言ってたな」 「ちゃんと言っとかないと、晴希はすぐ引くから」 「そっか。わかった。迷ったら、言う」 「うん」 「あの…」 小鳥遊が、言い淀んで持っていた箸を置いた。空になった手は、膝の上に下ろされてしまった。きっとまた、握ったり開いたりしているに違いない。 「ん?どした?」 「勇也。あの、俺も、その、いい人と付き合ってることに、なってて」 「へ?職場で?」 「うん。その、なんか、自覚はないんだけど、浮かれてたらしくて、職場のおばちゃんたちに突っ込まれて」 「で?」 「年下だけど、かっこいいんですって」 「言ってくれたの!?」 「何か、言わなきゃ、解放してくれなかったんだよっ。でも…間違いじゃないし」 本格的に赤くなった小鳥遊は、目を逸らしてちっとも香野の顔は見てくれない。 「おばちゃんら、何か言ってた?」 「俺が、結婚してすぐ独り者に戻ったことは、皆知ってたから、すごく喜んでくれて。それで、その、大事にしてあげろって」 「さすが、おばちゃん!すばらしい!」 「だから、その、遠距離恋愛とか単身赴任みたいになってるけど、その、毎週、ちゃんと来るから。飯作るのは俺の勝手だから、気にしなくていいんだけど、ちゃんと来る。だから、あんな慌てなくて、いいから」 「ああ。さっきの、玄関で。俺、そんな慌ててた?」 「怒ってるのかと思ったら、すごく心配してくれてて。悪かったなとは、思ったんだよ」 「晴希……」 香野は、つないでいた手をぎゅっと握った。それから、逆の手で小鳥遊の頬を包んで正面を向けた。 「晴希、毎週来て。具合悪い時は、俺が行く。出張とか残業とか仕事の時は、連絡して。迎えに行ってもいいなら、教えて。週末は、俺にちょうだい?」 「お前もな」 小鳥遊は、その手をしっかりと握り返した。それから、ぽんと香野の膝を蹴って、握られた手を取り返した。 「いいじゃん、手ぐらい」 「酒、グラスよこせ」 赤い顔のまま、二人分のグラスを持って立ち上がった小鳥遊は、食後だからとウオッカの水割りを作った。 薄く作ったのがどちらかわからなくなって、えいやと片方のグラスを渡したら、一口飲んだ香野がひどく噎せた。 「悪い、間違えた」 「…ほんっとに、優しい顔して酒強いなぁ」 「顔は、関係ないだろ。悪かったって」 グラスを取り換えた小鳥遊は、立ち上がって、噎せる香野の背中を叩いた。ついでに、お詫びの印とでも言うかのように、こめかみに一つ、キスを落としていった。

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