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第8話
あの双子の片方は何を見ていたんだろうって同じところに立って日差しに背を向けて2階を見上げた。ベッドがある部屋の窓が見える。それだけ。
-ėrable-
田舎っぽい匂いがする。空はまだ青い。白い雲はなんか指で擦り付けたみたいだった。雨は降ってない。不思議な感じがした。姉貴から目を離すなって言葉の意味は分かるけど分からなくて帰るに帰れなかった。あんまりうろうろしてると近所の人に通報されちゃうかな。姉貴から目を離すな。どうして雪也さんのほうじゃないんだろう?雪也さんは自分で動けるけど雪也さんのお嫁さんが不自由したら大変だから?帰ろうかまだここに居ようか迷った。2人にしてと言われたら2人にするしかない。だって雪也さんの家族は雪也さんのお嫁さんで、ぼくはあの双子みたいにどっちかの家族でもない。ぼくはただのペットでしかないから。雪也さんと雪也さんのお嫁さんは別れる。それまでの間の大事な時間。ぼくは会おうと思えばいつでも会える。いつでも会える?なんでそんなこと思ったのさ。いつでも会えるなんて決まってない。雪也さん次第でぼくだっていつか…そもそも始まってもいない。
カーテンが開いて窓が閉まる。開いてたんだ。雪也さんが見えた。目が合った気がした。手を振る。でも雪也さんは気が付かなかった。帰ろう。そろそろ帰る頃だ。ぼくは雪也さんの家に背中を向けた。やっぱりちょっと田舎の匂いがした。雪也さんはもう大丈夫だ。雪也さんは、大丈夫?雪也さんも体調悪くて、雪也さんのお嫁さんがあんな調子で、いきなり元気になる?なったとしたらきっと思い込みだ。雪也さんだってどっかで壊れる。いきなりそんな元気に、いつもみたいになるわけない。姉貴から目を離すなって、雪也さんがダウンしたら頼むってこと?2人きりにしたっていいことなんかない。あの双子くんははっきりしたことを言ってくれなかった。ブドウみたいな鈴の付いてる玄関ドアを開けた。ベッドのある部屋に行く。向こうからドアが開いた。
「雪也さん」
雪也さんはびっくりした顔をした。手にはタンスとか収納に使われてる伸ばしたり縮めたりする棒が握られてた。片付けでもしてたのかと思った。
「なんだ、君か」
雪也さんは泣きそうな顔でナントカ棒、五家宝 ?オオハマボウ?を両手で持った。
「まだ居たんだな」
ぼくはちらちら雪也さんを見た。雪也さんもじっとりぼくを見る。何て返していいのか分からなくなって、こういうのぼく向いてないんだし、もうはっきり言ってやろう。
「うん…心配に、なっちゃって…」
「心配?何故だ?俺はもう大丈夫だと…」
ぼくは決めたのにどっちつかずというか、口にしちゃダメな気がして、雪也さんの前でもじもじした。
「本当に?」
「ああ。ほのかの為に今度は俺がしっかりしないと」
ぼくの心配し過ぎだよ。雪也さんは王子様なんだから。ぼくが心配するなんてそんなのはあれだよ、烏滸 がましい。でも、だから、雪也さんは大丈夫だから、王子様だから、ラブロマンスのヒーローだから、見えない聞こえない気付かないで通すつもりか。
「ぼくもしっかりする!」
叫んじゃってた。雪也さんのお嫁さんがびっくりしちゃう。雪也さんを掴んでまた言い直す。
「ぼくもしっかりする。ぼくには雪也さんのことも、雪也さんのお嫁さんのことも大事だよ」
「深秋」
「頼りないしバカだしガキだけど、雪也さんの傍に居られるようにしっかりする。雪也さんのお嫁さんのことも大事にする!」
雪也さんはぼくの手を嫌がった。でも代わりにぼくの肩に手を置いた。
「そういうことじゃない」
「別れちゃうって嘘だよね…?」
雪也さんはぼくを見つめるだけだった。
「これ以上は、夫婦の問題だ」
ぼくの肩をあっさり放してぼくを置いて雪也さんはベッドのある部屋に入っていった。ぼくは立ったままドアの木の模様を追ってた。ぼくはただの雪也さんのセフレ。ペット。雪也さんのお嫁さんにとっては目の上のたんこぶ。癌 。どうして雪也さんの傍に居られて力になれるなんて傲慢 なこと考えたのさ。ぼくは本当にただ、雪也さんが必要な時にカラダを癒すだけの役目だった。それで満足してたはずだったのに、なんでかぼくは勘違いしてた。恥ずかしくなるくらい。雪也さんのお嫁さんがぼくを呼んでぼくに話しかけて家に入れてくれてぼくを頼ってくれて、どんどんどんどん勘違いが深くなっていった。恥ずかしいやつ。オルゴールの音が小さく聞こえた。夫婦の時間。あんまり長くない。姉ちゃんと好き人 は結ばれなくて、結ばれなくたって結婚なんてただの関係の延長で夫婦とかいう形式 になったものだなんて思ってたはずなのにぼくには遠い。大きくて高くて頑丈な壁。ぼくは階段を降りた。一段一段振動が目蓋に届いて見えてる世界がぼやぼやして揺れた。雪也さんはまた普通に暮らす。もうぼくは要らない。雪也さんのお嫁さんが大変なのにどうしてぼくの相手できるの。ふらふらしたけどぼくは歩いた。真っ直ぐ。さっき行った川にまた戻る。橋の上にカラフルなパーカーに眩しい色の靴履いてた人がいた。向こうもぼくに気付いた。タイツみたいなレギンスみたいな長い脚の形が出る格好は間違いなく双子の捻くれた感じのするほうだった。橋の柵みたいな欄干 に肘ついて川を見てた。
「何してんの」
「あんたこそ」
タバコ吸ってた。ぷか~って煙が上がってく。
「もう1人の子は?」
「双子だからって2人で居なきゃならないなんてことはないでしょ。どうです、あんたはオレたちの区別がつきますか」
意外と萌え袖でタバコを掴んで口から離す。ジロ…ってちょっと鋭い目がぼくを見た。でも顔はまだ川を向いてた。
「すっぽんぽんで喋ったら分からない」
「十分です」
またすは~って煙が渦巻いていく。ちょっと臭い。タバコが。この人自身はなんか洗剤の匂いする。
「実家近くにこれくらいの川があるんですよ。鯉のぼりとか飾られるんです、季節になるとね。夏もな提灯だったか、風鈴だったか。忘れましたけど」
「どうしたの急に」
「いきなり思い出しただけです。ただのクラスメイトだったんですけど、首吊って死ぬ前に川に来てたんですよ。練炭だったかな。顔も名前も覚えちゃいないんですけどね」
くるっと回転してカラフルくんは欄干だっけ?欄干に背中を押し付けて首をごてんってして空を見上げてた。
「オレもどうしていいか分からないんですよ。あんたに核心的な一言をかけるべきか、流れに任せて後悔するか」
ぼくはこの不思議ちゃんが本当に不思議で不満を顔に出しちゃった。カラフルくんは両肩を広げて空を持ち上げるみたいなポーズをした。海外俳優があっけらかんとしてやるやつ。
「大体姉貴にも晴火にも伝わりますからね、血縁の神秘 ですね。雪也さんについてはあの人の持ち前の頭の良さでしょうが。だから言葉にするのは苦手なんです」
「はぁ…?」
「確信がないんです。ただひとつの、それなりに大きな可能性ってやつで」
ぼくはまどろっこしい言い方にちょっとイライラしてた。ぼくはこの子の姉ちゃんでも弟でもないし頭も良くない。底辺高校やっと卒業したくらいだし、パチンコとカラダで稼いで行った専門学校もやっぱあんまり頭いいところじゃなかった。やっぱりぼく、雪也さんに釣り合ってないんだな。
「何の話…」
ぼくはどんどん不機嫌になっていく。
「あの人死ぬかもな、って話」
ぼくは頭は良くないけど意味は分かっちゃってカラフルくんの胸ぐら掴んでた。萌え袖からちょっと出てる指がタバコを放しちゃって吸いかけのタバコが欄干?鳥居みたいなやつから落ちていっちゃった。カラフルくんはあ~あ、ってカオしてた。
「なんでそんなこと言うんだよ」
「これだから言えなかったんですよ。不謹慎だの何だのって言うんでしょう?あの時も言われましたからね、縁起でも無い、二度と言うなってね。でも実際死にましたからね。オレが言っちまったからですか。そういうの、言霊主義っていうんですよ。だから嫌だな、言わないと分からない人って」
カラフルくんはまだへらへら笑っていた。ぼくは鳥居みたいな欄干みたいな柵みたいなやつにカラフルくんを突き飛ばす。
「オレがド不謹慎で縁起でもないことを言ったので、もう決定したみたいです、二度は言いません。頼みましたよ、あとはあんた次第ですがね。因みにオレはどっちでもいいです。どっちだって仕方のないことで、オレは干渉できないことです」
カラフルくんはぼくから目を逸らした。それで蛍光色のスニーカーが小石を鳴らした。カラフルなパーカーのフードが目の前にあった。
「なんでぼくに丸投げなのさ!君たちのお姉さんとその旦那さんだろ!ぼくは、」
ただの、雪也さんのセフレで部外者で望んだって雪也さんの家族になれないのに。
「姉貴の意向でもあるんですよ。わたしと別れてあんたと幸せになれってね。残念な話ですが姉貴は自殺です」
ひょいひょいとカラフルくんは手を振った。
「嘘だ!」
ぼくは叫んだ。日が沈んでいく。ドブの匂いと田舎っぽい匂いがした。
嘘だ。雪也さんのお嫁さんが自殺だなんて嘘だ。雪也さんが死ぬ気だなんて嘘だ。ぼくは鍵が掛かってる玄関扉を叩いた。インターホンを爆速で鳴らして隣の人がすごい顔でぼくを見てるのも見た。警察を呼ぶぞ!警察を呼ぶからな!警察を呼ぶ!って叫んで庭で暴れた。もう死んでるかもしれない。雪也さんは出てこなかった。キィキィひぃひぃ言いながらぼくは本当に気が狂ったみたいに芝生の上を寝転がって髪を引っ張って叫んだ。なんだか気持ちが良かった。うるせぇ!って家の前の道から怒鳴られてぼくは黙った。頭を抱えて芝生に顔面を叩き付けた。雪也さんも雪也さんのお嫁さんももう死んでるかもしれないってことが受け入れられなかった。雪也さんのことも雪也さんのお嫁さんのこともまったく知らない誰かになれないかな?って思った。もしくは悪い夢。覚めて欲しい。早いところ。死んだら終わりだ。姉ちゃんの時にも思ったけど。終わり以上に価値なんかないんだから、死んじゃうことに。でも自分から選ぶことないじゃないか。くそダサいカーテン買いに行けよ、ドブ臭い川に萎 びた桜見に行けよ、帰りにゲロ不味 ハンバーガーでも食って帰って来いよ。2人なら全部楽しいくらいのこと言え。腹の底から悲しくなって全部吐きたくなった。猫みたいに芝生を食うけど美味いものじゃないし吐くほど食べられない。遠くでサイレンが鳴ってマジで警察呼ばれたと思ったけど遠くなっていった。きゃんきゃん鳴いた。もうこの家の犬みたい。隣の隣の庭からガチの犬が吠えてまたぼくは黙ってしまった。玄関扉に這い寄って引っ掻く。開けて欲しい。もう死んじゃったかもしれない。どうして早く気が付かなかったんだろう。きゅいきゅい音がした。切なくなった。お腹も減った。100回繰り返すと死んじゃうとかいう百吃逆 みたいにヒッ、ヒッって言いながらぼくは扉を引っ掻いて爪を痛くした。でも痛いくらいが良かった。痛いことに集中したらゲンキンなものでちょっとだけこの現実から逃げられるような気がしたから。どこか開いてないかなって思ったらリビングのベランダの窓が開いてた。1人通り抜けられるかどうかってところからしてあの冷血タバコ吸いの愚弟 が開けっ放しにしたんだ。靴を脱ぎ捨てて中に入る。もう本当に警察沙汰 だった。
「雪也さん!」
もう何もかもかなぐり捨てて怒った。いきなり悲しみが怒りに変わって本当に怒った。雪也さんの顔を見たら一発殴る。階段を駆け上がる。寝室のドアを壊す勢いで開けた。部屋は真っ暗で自分の心臓の音がめちゃくちゃ聞こえた。物音が聞こえた。布団の音と、あっ、あっって音。ぼくは電気を点けた。
「く、暗いところはで、で電気を点けろって言ったの、ゆ、ゆゆゆ雪也さん、だよ…」
ぼくが暗いところでスマヒョいじってたら雪也さんそう言って電気点けたもん。ホントだもん。目の前に広がる光景に肩がビビビってした。雪也さんは生きてた。でも、知らない人に持ち上げられて裸だった。向き合うみたいな格好で尻揉まれて、たん、たん、って上下する。そのたびにあんっあんっって声がした。
雪也さんは首がぐらんぐらん揺れてた。赤い虎か牛か犬みたいな昔っぽい置物みたいに。ぼくはヤバいなって思ってベッドの横に立て掛けられてた五家宝 だか煮饂飩 だかいうナントカ棒が目に入って掴んでた。雪也さんはもう死んじゃうかも知れなかった。それくらいがくんがくん揺れてはぁはぁ言ってた。ぼくは離せよ!って叫んでた。雪也さんのお嫁さんがびっくりしちゃうよね。収納に使う棒は頼りなかったけど雪也さんにドイヒーなことするヤツを叩くには十分だった。その知らない人はなんか混乱してる様子で、お前が悪いんだ!って怒鳴り返された。そのうちピンポーンってインターホンが鳴ってただでさえ不安を掻き立てるというか不意を突く音にほんっとに心臓止まるかと思って息がひとつ飛んだ。雪也さんは床に落とされて、知らない人は多分脱ぎ捨てた服かなんかを拾って外に出ていった。ぼくは五家宝 だったか金平牛蒡 だったかを握ったまま知らない人を追っちゃった。青と紺の服の人が玄関前にいて、ゲッて思った。まだちゃんと服着れてない知らない人も捕まってて、ぼくも職質されまくったことあるから警察官 はあんまり得意じゃなかった。家の前で騒ぎ倒したの通報されてたんだ。なんかテキトーなこと言ったら余計面倒なことになって色々注意されてるうちに雪也さんが来て丸く収まったけどぼくは最後まで警察 の人に変な目で見られた。庭で草を食べて発狂してる人がいるっていう通報だったらしい。近隣住民に迷惑をかけるなって言われた。警察官 がほぼ裸の知らない人を連れて行って扉を閉めると雪也さんは膝がくがくさせてしゃがみこんじゃった。
「大丈夫?」
雪也さんは立ち上がらなかったし答えてくれなかった。
「ごめん、戻ってきちゃって…勝手に入ってきちゃったし、警察も来ちゃって……でも雪也さんが無事で、」
「なんでだ!」
雪也さんが怒鳴った。ぼくは何が起きたのかすぐに分からなかった。ああ、全然無事なんかじゃないよ。雪也さんレイプされてたじゃん。何言ってんだろぼく。軽率すぎな。でも死んじゃったかもって思ってたから生きてて――
「どうして放っておいてくれない!」
伸びてきた腕がぼくを玄関のドアに押し付ける。喉が痛くなりそうな怒り方だった。雪也さんの綺麗な声が嗄れたら嫌だなって呑気に思った。
「どうして放って置いてくれない…?どうしてだ…?なんでだ…?」
雪也さんの目が濡れてく。頬っぺた赤くなってて殴られたんだと思う。首にも変な痕があった。メカラウロコが落ちるみたいにぼろって、目から角膜みたいなのが落ちるみたいに雪也さんの目から涙が落ちた。ダイヤモンドみたいで悪いヤツみたいだけどドキっとした。それでどう誤魔化そうとかどう言い逃れようとか、どうやったらこれ以上嫌われないかとか頭が吹っ飛んで、もうどうにでもなれ!って正直に言った。
「雪也さんが、死んじゃうかもって、思って…」
雪也さんは何も言わずにずんずん進んでいっちゃってベッドのある部屋に戻ってぼくも追った。雪也さんのお嫁さんが寝てる部屋。
「ほのかと死ぬことにした」
驚きはなかった。でも雪也さんのお嫁さんもってところはちょっとだけびっくりした。
「俺を手籠にした主犯格の、車の前に飛び込んだんだ。当たり屋だ…自殺だったんだ」
雪也さんは雪也さんのお嫁さんの脇に座ってどっかを見てた。
「さっきの奴は、そいつ等のひとりだ」
ぼくはぼや~ってした。話はもちろん聞いてたけど。
「俺が不甲斐ないばかりに…」
雪也さんはベッドから立ち上がってぼくに帰るように言った。それからここで何も見なかったことと、自分とは会わなかったこと、雪也さんのお嫁さんのことも知らないふりをすることを約束するように言った。一方的に。なんかもう縄も用意してあった。雪也さんのお嫁さんにこれで殺されかけたことがある、って冗談なのか本気なのかも分からないことを苦く笑って教えてくれた。でも立場が変わってホントになる。使い道はそのまま。綱引きのやつより2回りか3回りくらい小さい縄。
「色々とありがとうな。世話になった。感謝しても感謝しきれない。俺とほのかのことは忘れてくれと言ったが、深秋のことは忘れない」
もうぼくが帰るつもりになってること前提で雪也さんは言った。ちょこっとぼくのほうをみて優しい顔付きになる。
「嘘だ。忘れちゃうよ。忘れるとかじゃないや、消えちゃう。ぼくのことなんか消えちゃうよ、苦しくて悲しくなって一瞬でさ。ぼくのことだけじゃないよ、雪也さんのお嫁さんのことも、あの双子のことも」
だって死んだら終わりなんだもん。それが姉ちゃんにとっては幸せだったのかも分からないこと。恨まれるのも過去の罪も帳消し。だって死んだら終わりなんだから。それ以上に何の幸せがあるの。カラフルくんのお友達だって。
「……帰ってくれ。もう決めたんだ。別れるつもりなんかない。別れるくらいならほのかも殺す。俺の手で…きっとほのかもこんな気持ちだったと思う」
ぼくは雪也さんが雪也さんのお嫁さんのぼくの手首くらいの細さしかなさそうな首に縄を掛けるのを見ていた。
「さ、君も帰らないと共犯になってしまう」
ぼくは雪也さんを見た。雪也さんもぼくを見た。
「毎日毎日嫌な夢を見る。毎日、毎日屈辱の時間を味わった。そろそろ夢でまでほのかを売ってしまう。いや、もう売ったのかも知れない。だが独り遺していけない。肉体 ももう俺の意思から離れてしまった……深秋、つらいんだ。生きていて…生きるのが、つらい」
雪也さんのお嫁さんは寝たままだった。墨汁で染めたっぽい髪は枕に散らばってた。雪也さんが安心して暮らせるようにって頑張ってたよね。金属バット振り回して、なんか白いやつ腕に巻き付けて。
「生きて欲しい。死なないで欲しい。でも、雪也さんのこれから続く悩みとか、苦しくて怖い夢とか、また来る不安とか、これ以上続けてってぼく言えない。つらいよね……ぼくの力じゃ雪也さんに寄り添うことなんてできないんだ」
死んだら終わる。それが結局、雪也さんにとって幸せなことじゃなくても不幸じゃない。その時は雪也さんの罪も消える。雪也さんのお嫁さんの罪も消える。
「ぼくにできるのは止めることだけ」
雪也さんのお嫁さんの細い首に巻かれた縄をおそるおそる外した。雪也さんのお嫁さんを抱き締めてみる。軽かった。軽くて軽くて泣きそうになった。泣かなかった。
「ぼくは雪也さんのお嫁さんとそんな長くないけど、ぼくの中の雪也さんのお嫁さんはこんなこと望んでないから…」
「俺の中のほのかだってこんなこと望んじゃいないさ!…でももう遅いんだ!何もかも…」
ぼくは雪也さんのお嫁さんを抱き締めたまま揺籠になって揺らした。雪也さんのお嫁さんは雪也さんと同じ匂いがした。ちょっとだけアプリコットだかパンナコッタだかってやつの匂いもあった。気付くと大きな黒い目が開いてた。ぼくは近くにあったうさぎのぬいぐるみのオルゴールを渡した。雪也さんは雪也さんのお嫁さんに背中を向けたままだった。
「もっと早くに別れておけば良かった…全部狂った日から……そうすればほのかはこんなことにはならなかった…何もかも、何もかももう遅い」
ぼくはうさぎのぬいぐるみを握らせたけど雪也さんのお嫁さんは持ってくれなかった。丸いしっぽの横から生えたネジを回す。オルゴールが鳴り始める。雪也さんのお嫁さんは握ってくれた。それがなんとなく、オジギソウがお辞儀するのとかハエトリソウが虫を捕まえるようなやつと同じ反応だったとしても、ぼくたちからは聞こえない場所で何か言ってるみたいだった。自殺だったとしても別に死にたかったわけじゃないはずだ。反応も何もなかった姉ちゃんのことが浮かんで、やっぱり死んじゃ嫌だった。
「やっぱりヤだ!全部分かったつもりになって見過ごすのヤダ!生きて。お願い、雪也さん。生きてよ。お願い……パチカスやめるから…売り専もやめて、ちゃんと働く。しっかりする!雪也さんのお嫁さんに雪也さんの傍に居てって言われてんだよ。お願いだよ雪也さん」
雪也さんは突っ立てた。ただ一回だけぼくのほうを見た。
「せっかく出会ってこのままつらいまま雪也さんに何もできないまま死んじゃうなんて嫌だ!雪也さんのこと好きだもん。真面目に生きるからさぁ、お願いだよぉう」
オルゴールがずっと鳴ってる。雪也さんのお嫁さんは動かない。きっと目が覚めるかもしれない。覚めないかもしれない。分からないけど、死んだら終わりで生きてればまだ続いて湯気みたいに曇ってるずっと先のこと追ってるから価値がある。多分。じゃなきゃ食べて寝るだけ。姉ちゃんと好き人 の未来は湯気ごと無くなっちゃった。姉ちゃんが学生時代にもうぶっ壊してたのだとしてもぼくも母ちゃんも父ちゃんも湯気の奥にある未来を信じてた。
「敵わないな」
雪也さんは笑ってるのか泣いてるのかバカにしてるのか分からなかった。オルゴールが止まった。
「責任取る…」
「深秋が思うほど簡単なものじゃない…俺はきっと君に助けを求めるし、みっともなく縋り付くぞ」
「そうしてもらえる男になります」
「義弟 たちのことも、俺はきっと振り払えない」
雪也さんがまたぼくを怖い顔して見た。あの双子も雪也さんのこと好きなんだった。ぼくが答えられないことに雪也さんは少し笑った。
「雪也さんの合意があるなら、ぼくはちょっと妬くだけにする」
雪也さんは肩を落として目を掻いた。ぼくは雪也さんのお嫁さんからするグレープフルーツみたいな匂いをぐじゅぐじゅする鼻で嗅いでいた。
-vlam-
散歩に行こうって深秋が言い出してお義兄さんは歪なおにぎり作ってた。ハルカはこの前拾ってきた鱈 の血合い柄みたいな顔面だけ黒い黄ばんだ白い猫を抱き上げて遊んでた。オレはせっせと洗濯物を畳んでるのに。深秋も電子レンジが鳴ったりポットが鳴ったり玉子焼きが焦げるとか言ってあたふたしてる。なんか変な家になったな、って思ったけど悪くなかった。お義兄さんが別れたくないって言った時は驚いたし、自分と姉さんのセカンドパートナーとか言って深秋を紹介した時はもう完全に頭がおかしくなったんだと思ったけど。親父もお袋もめちゃくちゃ変な顔したしかなり悩んでたけどハルカが時代が変わったんだよとか言って説得してたし、現代 の人は意味が分からんって感じだったけど、まぁそれなり納得してたしこれからそれなりに馴染んでいくでしょ。ハルカが言うなら間違いない。新時代、おれ付いて行けっかな。でもちょっと安心した。ちょっと。まぁこういうのもありか。内気なハルカが家族とか言ってるなら。バハムートだかベルガモットだかって名前の変なメス猫も増えてまぁいいんじゃないの。おれは鱈の血合いって呼んでるけど。姉さんの膝温 め要員だから丁重に扱わないと。
2階のトイレに畳んだタオルを持って行こうと階段を上がるとオルゴールが聞こえ始めた。姉さんしかいないはずなのに。うるさかったら可哀想だな止めてあげなきゃって寝室のドアを開けた。ちょっと気持ちいい風が吹き抜けた。薬臭いグレフルの匂いがする。ああ、昔飼ってた猫の名前思い出した、ぽんかんだ。
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