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第103話

 残った唯人は(そば)に残った執事長に手を伸ばし、心得たように差し出されたハンカチで顎の辺りを拭う。 「臭うな……社長の酒量は?」 「最近では大切な会合や仕事が無い限り、昼間からかなりの量を飲むようになりました」 「そうか。今回の話……こちらからではなく、先方から来たんだろう?」 「はい」 「分かった。下がっていい」  返答に頷きながら唯人が一言命じると、恭しく頭を下げた執事は部屋から出ていった。  一人残った唯人は深く息を吐き、設えられたカウチソファーへと優美な動作で腰を降ろす。  ここは……世界の各所に点在している邸宅の内の一つだが、あまりに広く使い勝手が悪いため、留学時にはロンドン郊外の小さな屋敷を使っていた。  何故留学していたかと言えば、祖父である会長からの命令があったからだ。 (まあ、当然の判断だろうな)  ある事件を切っ掛けに、父の明弘はヨーロッパを拠点とするグループ企業を任される事になり、日本には年に数える程しか帰れなくさせられた。  当時社員達からは……(てい)の良い左遷だと噂されたと聞いている。  同じ事件に絡んだ唯人も留学を強制されたが、世界有数の名門大学を首席の成績で卒業すると、日本の最高学府で更に学びたいと祖父に申し出た。 『いいだろう。だが、同じ愚は絶対犯すな』  許可をした祖父にも念を押されたが、勿論そんなつもりは無い。  自暴自棄になった父が、酒に溺れる様子を見ながら愚かだと思っていた。 (そう……あの人は、いまだに過去にしがみついて、現実を全く見ようとしない)  留学をしていた頃、唯人はただ、空虚だった。  それを埋める存在を、イギリスでの生活で見つけることもかなわなかった。  治安上危険だからと、送迎やSPが常に唯人の周りを固めていたから、集まってくるのは自分に媚びるような人間ばかりで、愉しませてくれるような存在はいなかった。 (あの時、(はな)たずに閉じ込めていたら……俺は満たされていたんだろうか?)  高校時代に籠から放した小鳥のことを思い出せば、砂漠のように乾いた心が知らぬ痛みに襲われた。

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