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第112話
『被害妄想だ』と切り捨てればいいのにそうする余裕がなかった。
なるべく視線を合わせないよう過ごしていた筈なのに……それでも彼に不愉快な思いをさせてしまっていたのだろうか?
「……謝らせるために、呼んだのか?」
ペチペチと頬をナイフの腹で叩かれ心臓が竦 みあがるが、それでも気丈に答えれば……樹は急に笑みを浮かべ、「そうじゃない」と告げてきた。
「実は、協力して欲しいことがあるんだ。こんなこと、暁にしか頼めないから、何度も足を運んだのに、ちっともなつかないからさ……時間切れになった」
刃先が軽く喉元に触れ、暁は体を引くけれど……すぐに背もたれに頭が当たり、それ以上逃れられなくなる。
「それ、しまえよ。頼みがあるなら普通に話せばいいだろ」
ただならぬ雰囲気に、声は情けなく震えてしまうが、それでも必死に言葉を紡げば、
「それは出来ない」
と冷たく言われた。
「たまたま街で見かけた時、お前なら丁度いいと思ったんだ」
「樹、何を言って……」
「ほら、女の子って訳にはいかないし」
「……樹?」
急に早口になった樹がニヤリと口元を歪ませるけれど、事情が全く分からないから、名前を呼ぶことしか出来ない。
「立てよ」
刃とは反対側の先端で顎を軽く持ち上げられ、ゆっくり立ち上がりかけた暁だが、次の瞬間素早く腕を翻し彼の手首を払った。
「っ!」
ナイフが樹の掌を離れ、硬質な音を響かせる。
気を取られた樹の視線がそちらへ向いた一瞬の隙に、暁は彼の体を押し退けドアの方へと駆けだした。
しかし、玄関へとたどり着く前に、脇のドアが開かれて……そこから出てきた人物によって暁の逃走は阻止される。
「……なっ!」
「折角代わりを捕まえたのに、逃がしたら駄目だろ」
「すみません、佐伯さん。ちょっと油断して」
開かれたドアの向こう側を見て、自分の腕を掴む男がバスルームに隠れていたのは理解した。
だが、見たこともない第三者が何故ここにいるのか分からない。
樹もわりと体格がいいが、目の前に立つ男はそれより更に立派な体躯をしていた。見たところ、身長は唯人と同じくらいだが、スーツを身に纏っていても筋肉質なのが分かる。
年は40代半ばくらいだろうか?
しっかりとオールバックに撫でつけられた髪の毛と、鋭くこちらを見据える視線に、肉食獣に睨まれたように暁は動けなくなってしまった。
「兄ちゃん、事情は聞いたかい?」
「……」
ゆるゆると首を横に振る。
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