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第8話 - 3

「あれ、石井くん? ここにいたんだね。急いで会社出てったから、どこ行ったのかと思ってた。この店、知ってたんだ」 「あ、ああ鈴木先輩! ぐ、偶然ですね! な、なんでここに?」 「よく来るんだよ。 ああそうそう石井くん、この子ルイ君っていうんだ。可愛いだろう? 僕が昔学生の頃、家庭教師してた子なんだ。 すっかり大きくなったよなあ、ルイ君! 偶然ここでバイトしてるの知ってね、時々来てるんだ。いい店だよね」 「そ、そうですね。 ル、ルイ君、鈴木先輩のこと昔から知ってンだ!?」 「はい! 優しくてカッコよくて、すごくいい先生でしたよ!」 「そ、そうなんだ……」 「そうなんです! 古文も数学も理科も教えるの上手で。ボク、それで勉強が好きになりました。面白い話もいっぱいしてくれて! 勉強よりそっちの方が愉しかったかも。学校の授業より、鈴木先生の方が面白かったな。大好きでした!」 照れ臭そうに笑う鈴木さんに、蘆屋先生が声をかけた。 「鈴木さん何にします? ビール?」 「うんそうだね、とりあえずビールください。石井くんも一杯どう? あ、ウイスキー飲んでるの? 珍しいね。 ……何、どうした? 石井くん元気ないね、何かあった?」 鈴木さんが石井さんの顔を覗き込む。 「あ、いえ……」 「あ、ひょっとして誰かと待ち合わせだった?」 「いえ! ……あの、これと同じのもう一杯ください」 「はい」 蘆屋先生はいつものように優しい表情で、静かに水割りを作る。 会話が途切れると、店内を流れる音楽が存在感を増した。 「ルイ君これ、昔、弾いてた曲じゃない? ドビュッシーだよね、確か『亜麻色の髪の乙女』」 「そうです! 鈴木先生、よく覚えてますね!」 「“亜麻色の髪”っていうのがルイ君の印象と重なってね。で、覚えてた。僕の周りはピアノ弾く男子って珍しかったし。 その頃からルイ君、上手だったね。弾いてくれて嬉しかったな。 またここで聞けるなんてね。結構、楽しみにしてるんだよ」 「嬉しいな。でも、もう前みたいに指が動かないんです。毎日練習しないと、すぐ動かなくなる。また練習しときます。 ここに初めて来た時、蘆屋先生がこの曲を流してくれたんです。その頃ボク、すごくショックなことがあったんだけど、先生に救われて。昔から好きだったけど、今はこの曲、もっと好きです」 「へえ…… いい曲だよね、やわらかい光が心に染み入るみたいだ」 鈴木さんは軽く目を閉じて曲に聴き入った。 黙って顔を上げ、鈴木さんを見る石井さん。静かにカウンター仕事を続ける蘆屋先生。 控えめな暖かい灯りが広がる、薄暗さが落ち着く店内。大人しい音量のピアノ曲。厚い絨毯と木の内装が、スピーカーから流れる音を優しく吸収しながら反響させている。なんとも心地よいこの小さな空間に、身も心も溶けて馴染んでいくようだ。 曲が終わる頃、蘆屋先生がシェイカーを振って、カクテルグラス2つに分け入れた。 「ハイこれ、お二人にサービスです。今日のスペシャル。一気に、どうぞ」 2人とも、言われた通り一気に飲み干した。 「美味しい。飲みやすいですね」 「ホントだね」 石井さんと鈴木さんが顔を見合わせて笑った。 しばらくして、2人は肩を並べて帰って行った。 「あの2人、仲良さそうでしたね~。石井さんって第二新卒ですよね。最初の会社、ブラックだったって。今の会社は鈴木さんみたいな優しい先輩がいるんだもの、本当に良かったですね!」 「え? ……ふふふ、そうだね」 蘆屋先生は目を細めて、なにか可笑しそうに笑った。

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