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第8章

服を脱ぐと、ソラスも驚いていた。 夕陽を浴び金の細波をたてる泉に映った自分の姿を確認すると、かつて鱗が残っていた場所を中心に、知らぬ間にきれいに割れた腹筋の上まで鱗に覆われていた。腕や下半身や顔や背中も確認したが、一回り筋肉がついただけで鱗は見当たらなかった。 これも祝福だと言うのか。それともソラスの生命力を引き出す魔法の影響なのだろうか。 ソラスは自分の魔法は大した力は無いと言う。姿をくらます魔法も完全に姿を消せるわけでなく、触ればそこにいるのが分かってしまう。 布に泉の水を浸しながら、汗でべとつく身体を拭く。鱗は木の肌のように逆剥けており、布が何度も引っかかりあちこちほつれてしまった。まるで全身が鱗に覆われていた頃に逆戻りしたようだ。私の手が止まる。ある仮説が頭に浮かんだ。 私はソラスに、魔法の使い方や容姿が子どもの頃と大きく変わった所があるか尋ねた。 ソラスは首を振る。"取り替え子"は自分の育った世界の住人に近い性質を持つようになっていくというに。ソラスも何かしらの変化があってもおかしくないはずなのだ。 私が成長するにつれ、鱗が剥がれ落ちていき、"隣人達"が見えなくなっていったように。 “かの国"へ連れて行かれた両親の本当の子どもも、おそらくもう人の形をしていないだろう。 エルフは元々人間に近い容姿をしている為、今迄疑問に思わなかった。 私は今度は"かの国"の入り口に連れていってもらうよう頼んだ。ソラスは夜まで待って欲しいと言った。それから、そろそろ対価を貰わねばならないと。 "隣人達"の力を借りるにはそれに見合った対価を払わねばならない。しかし彼らの基準は人間とは大きく異なる為、道を開けてもらうだけで目玉を要求してきたり、反対に子を授かるのに香草と油が小さな壺いっぱいあれば足りてしまうこともある。 彼は、私の名を教えて欲しいと言った。そういえば名乗っていなかった。 『私はドレイグだ。ドレイグ・ファフニール。 親しい者にはレグと呼ばれている。君にもそう呼んでもらえたら嬉しい』 『      、レグ』 発音を確かめるように小さく言葉を反芻した後、ソラスは私の名を発した。赤く熟れた実が胸の中で弾けた気がした。甘い感情が広がっていく。 私はなぜか狼狽えてしまい、野営の準備に取り掛かる事で気持ちを鎮めることにした。 土に陣を描き炉を作ると、ソラスは感心してまじまじと見つめていた。魔術は見たことがないらしい。 手に取ろうとしたので止めた。出来てすぐはまだ脆く、暫く火に当て固めないといけない。しかし、ソラスがひょいと手にしても壊れなかった。魔術の威力も増してきている。仮説が真に近づいているのを感じた。 ソラスの分も茶を淹れてやり、啜りながら夜が深くなるのを待つ。初めて嗅ぐ香りだ、と興味深そうにカップに顔を近づけていた。裕福な家庭で働くメイドから紅茶の出涸らしを安く買い、レモンバームやミント等のハーブと混ぜて干したもので、決していい物ではないのが申し訳なかった。思考を助け、また腹を膨らませて空腹を紛らわせるだけのものだ。 茶を飲み終えると、ソラスは立ち上がり星空に向かって唄った。暫く虚空を見つめた後、"隣人"が教えてくれたという場所に歩を進める。 灯台下暗しとはこの事だった。私の借りている住まいの井戸から、淡い光が出ていた。 そう、私にも見えている。 私ははやる気持ちを抑えながら、覗き込もうと縁に手をかける。 火の中で枝が爆ぜる音がした。 私の手は光に触れた途端弾き返され、皮手袋は血に染まっていた。 ソラスは慌てて私の手を取る。 手袋を取れば、私の手は細かな鱗に覆われて、爪は猫のように先が尖り湾曲していた。爪が付け根に食い込み、鱗の間に血を滲ませている。 私の仮説は正しかった。 私の身体は、"隣人達"に近づいているのだ。 あの光を浴びると、元の姿に戻るらしい。 ソラスはずっと昔からあの光を浴び続け、人間離れした容姿と力を保ち続けていたのだ。 私もまたここに滞在することで、知らず知らずのうちにこの光を浴びていた。 "隣人達"が見え始めたのもこの兆候だったのだろう。 私は究極の選択を突きつけられている。 人の世に残るか、"かの国"へ旅立つか。 "かの国"へ行けば、おそらく元の姿に戻る事はなく、また人間の世界へ戻ることは不可能になるだろう。 現にこの手はもう二度と人目に触れぬようにしなければならない。 ソラスは私の異形の手をとり、眉を下げる。 『大した傷じゃない。大丈夫だ』 ソラスは首を振り、行ってしまうのか、と訊ねた。 ああ、ソラスとも別れねばならないのか。 やっと出会えた私の同胞。大切な友人。 いや、それ以上に、・・・それ以外に、ソラスに対する感情をなんと言い表せばいいのか。 ソラスは私の目をじっと見つめ、それから白い水彩絵具を水に溶かしたように姿を消した。 私は彼の名を呼びかけて、背後からの足音に耳を傾けた。小さな子どものもののようだ。聴覚まで研ぎ澄まされてきたのだろうか。 振り返れば、酪農家の末っ子が、両手にチーズや牛乳を抱えて満面の笑みを浮かべていた。チーズや牛乳がなくならなくなり助かった、と声を弾ませている。私は有り難く頂戴し、チーズを少し返した。"隣人"にも少しだけ分けてやって欲しいと言い添えて。 私は人間が嫌いな訳ではない。大学には恩師がいるし、親しい友人もいる。 そしてあの子がしてくれたように、人の優しさに触れればこの世界にも愛着が芽生える。 ソラスも同じだろうか。1人でも自分に真心を持って接してくれる人間がいれば、それが長引く程、別れが惜しくなる。 私は遠ざかっていく小さな背中を、ずっと見つめていた。

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