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「月岡が怒ってたぜ」 ベッドの縁に腰を下ろし、煙草の紫煙を天井へと噴いてから幡野が屈託なく笑う。若干28歳のこの男は、再来月若頭に成ることが決まっていた。 「俺はてっきり俺がお前のこと寝取ったから怒ってるんだと思ってたけどな、アイツお前が若頭(俺)に手ぇ出したことに怒ってやがった」 「…俺の所にも怒りに来ましたよ」 先に、と呟きつつ室田もまた唇にフィルターを寄せる。電気ヒーターが室内を温めていたがこの機械は酷く部屋を乾燥させていた。背を丸め、興味が無さそうに呟く40の男に幡野は悪びれもなく目を細めた。 幡野と寝たいと思ったきっかけも、ただの好奇心によるものだった。後の鳳勝会若頭になる男がベッドの上でどんな姿を見せるのか。そんな下卑た理由を臆面もなく口にした室田を幡野は幡野で面白がり、一回り年上の男とは寝た事が無いと返した。互いに戯れだと割り切った上での交わりだったが、月岡はそうは思わなかったらしい。 あの人はこれから若頭に成る、自分達が仕えることになる人なんだ。易々と手ぇ出して良い相手じゃねえんだよ。月岡は、自分の胸ぐらを掴んでそんな風に怒鳴っていた。 「お前、月岡と出来てた訳じゃねえのか」 「……、」 月岡が怒り狂った主語は自分ではない。 そもそも月岡がこの幡野の男気と気風の良さと器に惚れ込み、幡野の横で勤め上げたいという意志を明確にしたから、自分はその意思に追随しただけだ。対抗心などという安っぽいものではない。自分より一回り下の人間に仕えるという構図に馬鹿馬鹿しさを感じる時すらある。 自分はただ、月岡の隣に在るべきで、月岡もまた自分の隣に在るべきだという思いだけが室田を動かしている。 例えその間に幡野が挟まっていようとも、月岡と自分は肩を並べ続けているべきだ。 月岡は、自分が心酔する幡野に軽率に手を出したことに怒り心頭に達していた。胸倉を掴まれ、怒鳴られはしたが殴られはしなかったのは、自分が今の幡野のように一切悪びれる素振りを見せなかったからだろう。ただ、初めて目の当たりにする月岡の表情に、惚れた男の新しい1面を見た。そんなことだけを思っていた。 月岡は自分には興味は無い。自分には惹かれない。自分が誰と寝ようと構わない。誰と寝ても自分を咎めなかった月岡が唯一激昴したのは、相手が若頭だったからというだけのことだ。もう何年も月岡とは寝ていない。二十代そこそこの頃のように即物的な快楽を求める年齢でも無くなっていることが大きいが、肉体の関係を結ばなくとも、月岡との関係は鳳勝会に所属した瞬間に生まれた同僚という形で成立しーー完結している。 「お前らいつも一緒だからな。だから揃って補佐にすることにしたんだよ。上手いこと分業出来そうだし。デキてるならデキてるで構わねえけど」 「…いえ、」 いつも隣に月岡がいた。 身体の関係はあっても、それ以外の感情が介入したことは無い。いつも隣にいたからこそ、その機会を逸してきたという自覚はある。 不意に、昔の月岡の部屋が頭を過ぎった。古い安アパートだった。冬場になれば、冷え込むことしか知らない6畳間には古い灯油ストーブが置かれていた。煙草の煙と、ストーブの上のヤカンが発する蒸気の中、結び損ねた指先を思い出す。あの時、自分は確かに逸したのだ。 「…まあ、アイツ、鈍そうだよな」 幡野の声が室田の意識を現へと戻す。見ると、短くなった煙草の先を灰皿に押し付ける若い眼差しが苦い笑みで弧を描いていた。その直前に、幡野がじっと室田の反応を観察していたことには気付いていない。 「そっち方面」 「……アイツは、」 思えば、長い付き合いの中で月岡が面と向かって自分に怒鳴ったのは今回の幡野の件が初めてだった気がする。それに対して、自分が月岡に怒りの感情を向けたのもただ1度だけだ。遠い昔、あの深い雪に埋もれてしまいそうな六畳間のアパートで。 「アイツは、そういう奴ですから」 自分が主語にはならないことも、自分には目もくれないことも。昔、自分が激怒した理由を尋ねなかったことも。その全てが月岡らしい。 呟く室田に、幡野は小さく声を上げて笑った。 。°.。❅°.。゜.❆。・。❅。。❅°.。゜.❆。・

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