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王子様×お風呂×二度目まして
あ、れえ……?
湿気と熱気でモワリとした空気。かすかに香る花の甘い香り。少し離れたところからお湯が浴槽に落とされるジョボジョボという音が聴こえてくる。
湯船の中で尻餅をつき、髪から顎からボタボタとお湯を滴らせながら俺は酷く混乱していた。
どうしてこうなった。
――――そう。ノワールの王子様に命を狙われているかもしれないとわかって、これまでの秘めていた気持ちを圭太に伝えようと決意したのが一時間近く前の話。
俺は怖じ気づきそうになる自分を奮いたたせ、口火を切った。
「け、圭太っあのさ」
だがしかし。俺の一大決心は、圭太の気の抜けた声によって挫かれた。
「あ。そういや報告書まだ出してなかった」
ケロリとした顔でそう言うとさっと立ちあがる圭太。すっかり忘れてたなんて言いながら、ソファに放ってあった書類を拾いあげる。
そして思い出したように人差し指をこちらへ向けた。
「俺はしばらく戻らないから、先に風呂入って寝てろ」
それだけ言うとあっさりと背中を向けて立ち去ってしまう。ドアが閉まる乾いた音が無情に耳の奥に響く。
俺の純情は圭太によって見事にスルーされた。そりゃあもうこれでもかというほど見事にかわされた。残された俺はなにがおこったのか理解できず、ポカンと惚けるしかない。
…………風呂?
寝ろ?
呆気にとられて口を開けたまま固まるくらいには衝撃的だった。
いや、このタイミングで出ていくか。俺今から話そうとしていたよな? 無視かよ!
「~~~ッ」
あーはいはいはい。
幼馴染みにぞんざいな扱いを受けるのはもう慣れっこだけども。だけど、今! いつものそれを発揮してくれなくていいだろうに。
圭太と一緒に風の微精霊も出ていったのか、部屋はすっかり静まり返っている。そんな部屋のベッドの上、蹲った俺はひとりで見えない涙を流した。
さっきまでの甘酸っぱい気持ちは彼方に消え、胸の高ぶりはあっけなく萎んでしまっている。
くっそおおお。風呂入って寝ろってお前は俺の親かよ。そんでもって話くらいちゃんと聞けよ。
もやもやとした感情を胸に抱えながら、それまで伏せていた体を勢いよく持ちあげる。ベッドから降りた俺はそのまま荒々しい足どりでもって、備えつけの風呂場に向かった。
アホ圭太めっ!!
事件がおこったのは、心のなかで圭太への悪態をつきながらも入った風呂でのこと。
いつもの順序で髪の毛から足の指まで全身隈なく洗い終えたあと、湯舟に片足をつっこんだ。そこまではいつも通りのことで、なにも問題はなかった。
けど、もう片方の足を浴槽につけた途端、おかしな感覚がした。
既視感を覚えて下を向いたときにはすでに腰まで湯船に沈んだあとで。あっという間に頭まで浸かってしまう。
つい数秒前まで確かに存在していた浴槽の底が、突然消えた。俺がこっちの世界に飛ばされたときとまったく同じ状況で、ちがうことといえば溺れるよりも先に水面に顔を出したことか。
それで、現在に至るわけなんだけども。
――――なんだけども。
「……」
「……」
ええっと。
「…………」
「…………」
お互いの顔を見つめたまま硬直すること数秒。
「お前は」
それまで信じられないものを見るような目でこちらを凝視していた相手が、動いた。気がつけばガッチリと首と腹に腕を回されていてホールド状態。
「今までどこにいた? 部屋には鍵をかけていたはずだ」
耳元で抑揚のない静かな声で問われ、ビクリと体を竦ませる。
「まあいい。まずは戻ってきた理由を聞こう」
「いや、あの、これは……不可抗力というか、なんというか?」
決して戻りたくて戻ってきたわけじゃない。殺される可能性を考えるとむしろ戻ってきたくなかった。
「? 何を言っている」
しどろもどろになって口をもごもご動かしている俺に、王子様は訝しげに眉を寄せる。だけどそのあいだも逃がさないように拘束を強められて、大量に冷汗をかいた。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。これはまずい。どうして俺はこんなところにいるんだ!?
どうしたらいいのか分からずそわそわしていると、首元スレスレになにかの気配がした。
「っひえ!?」
「この香料はブランのものか……?」
ちょっ、ちょっと待て。この人は人の匂いをくんくん嗅いでなにしてるんだ。
驚いて暴れる俺なんてなんのその。まったく気にする様子もなく軽く押さえこんでくる王子様。
信じられない。さっき体を洗ったばっかりだから汗臭いってことはないだろうけど、それでもこれは恥ずかしすぎる。
「それと微かにだが風の精霊の気配……」
考えごとをしてるところ悪いんだけど、そろそろ首を解放してほしい。
「いい加減っ、ちょっと、離せよ! じわじわ絞まってる、ぐるじぃー」
まさかとは思うけど、この王子様はこのまま絞め殺す気なんじゃ?
そこまで考えてじっとりとした汗がこめかみを伝う。こんな真っ裸で、しかも同じく真っ裸の男に風呂場で絞め殺されるとか絶対に嫌だ。
さっきよりも激しく暴れると、呆れたような声が降ってきた。
「逃げないと約束するのなら解放してやるが、どうする」
「逃げない! っ逃げませんんん」
滴を飛び散らしながら何度も頭を振る俺に、きつい拘束が緩んだ。途端に解放され楽になった呼吸に胸を上下させる。
「っはぁーはー、はぁ、ふぅ」
必死に息を調えていると、王子様はなんともいえない微妙な顔つきになる。
「まさかお前、その体 でブランの間者などとは言わないだろうな」
「かんじゃ?」
呼吸を落ち着けた俺は、耳慣れない名称にきょとりとしてまばたきする。
えっと間者っていうのは諜報部員っていうか、要するにスパイのこと……だよな? ブランは圭太がいる国の名前だから、そこのスパイかどうかを疑われてるのか。すごい誤解だけど俺、そんな風に見えるのかな。
「ちがうけど、なんで?」
「お前からはブランでしか入手できない香料の匂いがする。それだけならまだしも、ここの土地ではない風の精霊の魔力の残り香まで感じる。並の者なら気づかないだろうが、私は見逃さない。何か言い逃れはあるか」
確かにブランにはいたし、風の微精霊といっしょにいた。なるほど、確かに怪しく映るかもしれない。王子様なんだし警戒するのはもっともだ。
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