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王子様×外出×大自然

   お昼を過ぎた頃、なんの前触れもなくオーギュスタンが部屋に現れた。そして足早に一人がけのソファに座って絵本を眺めていた俺の前までやってくると、がっしりと手を取る。 「今から出かける」  端的にそれだけを告げると、俺の膝に乗せていた本がずるりと滑って落ちるのにも構わず歩きだす。 「え? え。待って、本っ。オーギュスタン!」  不恰好に放置されたままの本に後ろ髪を引かれながら、先を歩くオーギュスタンの名前を呼ぶ。  で、出かける? 今からって……唐突すぎやしないか? 行き先は?  こっちの世界に来てからはなんだかんだで外に出る機会がほとんどなかったから、外出できるのは正直すごく嬉しい。  嬉しいんだけど、ひとつ気になることがある。オーギュスタンはどうしてバルコニーに向かっているんだ? 「…………」  嫌な考えが頭をよぎる。少し前にも似たような状況を経験している俺は、口許をひきつらせた。 「ま、さかとは思うけど、バ、バルコニーから出かけるってことはないよな?」  新しく俺にあてがわれた部屋は、以前閉じこめられていた部屋と同じ階にある。つまりバルコニーもあのときと同じ高さだ。大事なことなのでもう一度言うけど、同じ、高さである。  そんなわけないよねという願いをこめて尋ねると、こちらを振り返ったオーギュスタンに脇の下に手を入れられ、抱えあげられた。  それにいよいよ、体から血の気がごっそりと引いていく。ま、まさか本当にアレをやるつもりなのか。 「そうだが。落ちないようにしっかりと掴まっていろ」  怯えている俺を不思議そうに見つめたあと、オーギュスタンが肯定する。  ひいいいいいっ。一体この世界の移動方法はどうなってるんだ。みんなばかなの!? 俺絶叫系とおばけが死ぬほど苦手なのに!  ふたたびやるとは思いもしていなかった紐なしバンジージャンプを目前に涙目になる。けどすぐにぼやぼやしている場合ではないと悟り、目の前の頑丈そうな体にしっかりとしがみつく。  死んでも離さない。いや、死にたくないから離さない。  オーギュスタンはぶるぶるしている俺を抱え直すと、小さく何かをつぶやいた。 「!」  するとふわり、と下から柔らかな風が吹く。かと思えばそれはあっという間に俺たちの周りを取り囲み、勢いよく空へと向かって吹きあがる。目を開けていられなくてぎゅっと瞼を閉じた。 「…………」  数秒後、トンと軽い衝撃がしたかと思うと、オーギュスタンの静かな声が耳に届く。 「着いたぞ」  そろーっと瞼を持ちあげる俺をオーギュスタンがそっと地面に下ろす。足の裏がサクと草を踏んだ。  地面に足をつけた俺は、圭太に迎えにきてもらったときのような、危険な行動がまったくなかったことに心底安堵した。  よ、よかった、紐なしバンジージャンプじゃなかったのか。そうだよな、みんながみんなあんなアホな真似するはずないもんな。アホ圭太め!  心の中で毒づいていると、どこからかピチュピチュと鳥の鳴き声が聴こえてくる。木々のさざめく音に振り返れば、そこは青々とした森が周囲を覆っていた。 「……わ」  自分がどこにいるのかを確かめるために辺りを見回す。俺たちが立っているのは森に囲まれた開けた場所で、足元にはつやつやとした黄緑色の草の絨毯が広がっていた。  一番に目を惹いたのは中央に広がる湖だ。水面が日の光を受けて、宝石みたいにきらきらと煌めいている。 「すごい、きれい……」  それは思わずため息が洩れるほど美しい眺めだった。  ゆっくりと湖に近づいて覗きこむと、底がはっきりとわかるほどに透きとおっている。小さな魚がスイスイと水中を泳ぐ姿を捉えて、俺の中のテンションが急上昇した。 「やばいやばい、なにここ!」  こんな大自然に囲まれる経験がこれまでなかった俺は、興奮しながら湖に手をつっこんで、魚の捕獲に挑戦する。けどすばしっこい魚に捕まえることはすぐに諦めた。 「冷てー」  楽しくなって遊んでいると、すぐ近くに誰かがやってくる。誰かと言っても俺とオーギュスタンの他に人はいないようだから、誰かなんて決まっているんだけど。  俺は気配がする方を振り仰いで、この場所について尋ねるために口を開く。 「なあオーギュスタン、ここって……」 『黒の王子だ!』 『ほんとだ、黒の王子。今日はひとりじゃないのね』 『だれ?』 『知らないこ』 『水のこの気配がするけど』  全部を言い終わるまえにあちこちからいろんな声が飛び交ってきて、驚いて言葉を飲みこんでしまう。胸を押さえながらきょろきょろと辺りを見回すと、こちらを静かに見下ろすオーギュスタンと目があった。 「ここに棲む精霊と、微精霊だ」 「!」  教えられて、確かにここになら精霊が棲んでいてもおかしくないなと納得する。とてもきれいで、空気は澄んでいて、なにもかもが瑞々しく生命に満ち溢れている場所だから。 『ぼく知ってる。あのこ黒の王子の伴侶だよ』 『伴侶!?』 『きゃー』 『おめでとう』 『黒の王子おめでとう!』  微精霊たちの嬉しそうな声のあとに、たくさんの白い小さな花たちが俺とオーギュスタンの頭上へふわふわと舞い降りてくる。  そっと手のひらを上に向けると、そこへ雪のように白い花がふんわりと乗った。それを指先でつっつきながら、精霊ってこんなこともできるんだと感心する。 「ハルト」 「ん?」  白い花を両手のひらいっぱいに集めている、とふいに名前を呼ばれた。視線だけを上に向けると、オーギュスタンの指先が俺の目元をくすぐる。 「?」  反射的に目を閉じた俺は、次に瞼を持ち上げたあと驚きから目を見開いた。  それまでただただ広がっていた大自然の中に、楽しそうに笑う小さくてきらきらとした色とりどりの生き物たちの姿がとびこんできたからだ。 「これって」 「微精霊たちだ。ここのように清らかな場所でなら、少し手を加えればあの者たちの姿を見ることもできる」 「……」  微精霊たちを凝視する俺の隣で、あの青いのが水の微精霊、緑は風、茶色は土、黄緑は植物。微精霊よりも大きいのは精霊だとオーギュスタンがゆっくりと説明してくれる。  微精霊同士で戯れるようくるくると回ったり、楽しそうに水の上を跳ねていたり、草むらでかくれんぼしていたり、オーギュスタンの肩にひっついてる微精霊もいた。  たくさんの、ほんとうにたくさんの微精霊や精霊の姿がここにはあった。 「ハルト?」  無言でいることに疑問を持ったのか、オーギュスタンに顔を覗きこまれる。その顔が驚きに染まるのを認めて、俺は左右に首を振った。 「あ、や……ごめん。感動したら涙が出てきた……」  微精霊たちもだけど、この場所も、ほんとうにきれいで。こんなにきれいなものがあったなんてこれまで知らなかった。こちらに来てからは散々なことばっかりだったけれど、今初めてここに来て良かったと思えた。  すんっと鼻を啜り、目尻に滲んでいた指で涙を拭う。 「オーギュスタン」 「? ああ」 「連れてきてくれて、ありがとうな」  胸の奥があったかくて幸せな気持ちになって、俺はオーギュスタンに笑いかけた。  

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