ぽたぽたとお湯を滴らせながら、虚しく浴室に響いた声に愕然とする。オーギュスタン、夜、水の精霊。ここにはその誰の姿もない。 　――――帰ってきた。 　そう理解した途端、めためたに打ちのめされる。立っているのがやっとで壁に片手をつくと、そのままずるずると湯船に下半身を沈めた。 「……うそ、だろ……こんな」 　なんで。 　覚悟を決めたはずだった。自分が育った世界を諦めてでもオーギュスタンの隣にいることを望んで、残ることを宣言した。 　なのにどうしてここにいるのか。 　あのとき、その場に残ることを選んだ俺の肩をオーギュスタンが押した。オーギュスタンが俺をこっちの世界へと戻した。 「……っ、なんでだよ……オーギュスタン……っ」 　くしゃくしゃに顔を歪めながら問いかける。けど返ってくるのは静寂ばかりで、すでに自分たちは別の世界の住人なのだと思い知らされる。 　胸が引きちぎられるような痛みを覚え、絶望に震えながら唇に歯をたてていると、不意にガチャンと浴室の扉が開く。 「誰かいるの？」 「！？」 　脱衣所を振り返ると、幼馴染みの母親であるケイコさんが目を丸くしながらこちらを覗きこんでいた。 「え、温人くん？　あら？　確か帰ったはずじゃなかったかしら」 「ケイコ、さん……」 　目が合うと、ケイコさんは慌てたようにドアを閉めて引っ込んだ。 「やだごめんなさいね。圭太から温人くんは随分前に帰ったって聞かされていたから驚いちゃって」 「圭太から……？」 「あ、そうそう。びしょ濡れだった温人くんの制服だけど、乾かしておいたから持って帰ってね。思ったよりも早く乾いて良かったわ～」 　明日も学校でしょう、と言ってケイコさんは部屋を出ていった。遠ざかる足音を聴きながら、違和感に眉根を寄せる。 　俺があちらの世界に連れていかれたのはひどい雨の日で、自分の家から閉め出されていた俺は、ケイコさんの好意で圭太の家に雨宿りさせてもらっていた。 　そのときはずぶ濡れで、制服も雨水が絞れるほどひどい状態だったんだけど――――。 　あの日のことをまるで今日あったことのように話すケイコさんに、まさかと唇を動かす。 「あれからそこまで時間がたってない、のか……？」 　僅かに開かれた窓の隙間からみえる空は暗く、耳を澄ませばしとしとと雨が屋根を打つ音が聴こえてくる。雷はおさまっているようだった。 　向こうでの数日間が、こっちでは日が暮れる程度の時間だったってこと？ 　信じがたい事実にしばらく呆然としていたけど、だいぶ温くなってしまった湯船に鳥肌がたち、くしゃみが漏れて、ひとまず風呂場を出ることを決める。 　濡れた布が肌にまとわりついて気持ちが悪い。 　水の神殿にいたときの格好のまま戻ってきた俺は、服を着た状態で湯船に浸かっていた。今着ているのはあちらの世界にいるときにずっと着用していたワンピースだ。 　手首にはオーギュスタンからもらったブレスレットが嵌まっていて、これまでの出来事が決して夢ではないことを教えてくれる。 　ついさっきまで、俺は確かに、別の世界にいたんだ。そこでオーギュスタンと過ごした。 「……っ……」 　まだ触れられた感覚が残っているような気がして、きつく肩を握りしめながら蹲る。 　あちらの世界に残ることを選んだら、オーギュスタンは喜んでくれると思っていた。だけど目にした姿は全然嬉しそうじゃなくて、むしろ喜ぶどころかつらそうな顔をしていて。 　別れる間際に伝えられた内容を思い出し、視界が潤む。 　離れても、ずっと俺だけがオーギュスタンの伴侶だと。 　あいしていると、言われた。 「ずるいよ……なんだよそれ……」 　あんな別れ方はずるい。あんな刻みつけるように言い逃げして、俺の返事も聞かないで――――卑怯だ。 　鼻の奥がツンとして、目から熱いものがぽろぽろとこぼれ落ちる。 　オーギュスタンはきっとまだ、俺が圭太のことを好きだと思ってる。もしかして、こちらに帰したのはそのせい……？ 　嗚咽を噛み殺しながら首を左右に振る。 　俺はこんなことは望んでなかった。戻ったら、もう二度と会えないのに。どうして昨晩無理やりにでも絆を結ばなかったんだろう。そしたら離れ離れにならずに済んだんだ。 　そんなふうに今となってはどうしようもないことをひたすら後悔していると、ふたたび浴室の扉が音をたてて開かれた。 「っ！？」 　ケイコさんが戻ってきた？ 　いつまでたっても出てこないから心配したのかもしれない。どうしようと、顔を上げられずにいると声が降ってきた。 「それ、どういう状況？」 　声は予想していたよりもだいぶ低くて。問いかけられて視線を上げると、息をのむ。 　そこには胡散臭そうな顔をした圭太が腰に両手をつき、こちらを見下ろしていた。 「圭太……」 「お袋からお前が風呂場で騒いでるっつーから見にきてみれば、状況が謎過ぎんだけど。なにしてんの」 　数日前に会ったはずの幼馴染みの存在がひどく懐かしく感じて、涙が盛りあがり止まらなくなる。 「けぇた」 「面倒くせぇな――なんだよ」 　鬱陶しそうに返されて、変わらない態度に安堵する。だけどすぐに罪悪感でいっぱいになった。 「うっ……おれ、……ごめん。かえ、帰ったら圭太にあいにいくって……やくそくしたのに」 「……はあ？」 「おまえとの約束、やぶった……」 「……」 　結果的には帰ってきたけど、俺がしたことは圭太を裏切るものだ。 　今でも、オーギュスタンを選んだことがまちがいだったとは思わない。もう一度選べるとしてもきっと残ることを選ぶと思う。けど、だからといって胸が痛まないわけじゃない。申し訳ないという気持ちが芽生えないわけじゃなかった。 「ひぐ……っ」 　そのままぐずぐずと鼻を啜っていると、腰を曲げた圭太に腕をとられて引き起こされる。 「どういうことかは部屋で聞くから、とりあえずそれ着替えろよ」 　ムスと不機嫌そうな顔をした圭太に風呂場を出るよう促され、罪人のような気持ちでのろのろとあとをついていく。 　脱衣所に足を踏み入れる手前で、たっぷりとお湯を吸ったワンピースを脱いで水気を絞る。 　それを広げて皺を伸ばしていると、バスタオルでわしわしと水分を拭われた。雑に世話を焼いてくる圭太からバスタオルを受けとり、全身をくまなく拭きあげる。 　それから圭太の服を借りて部屋へと向かった。