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第2話 子供のような、君。

蒼穹を目指すかのように伸びる樹木の隙間から、朝日の金色の光が零れていた。野性の鳥たちが目覚め、隣に自らの伴侶がいることを喜んで特別な声でさえずる。おはよう、一緒に朝を迎えられて嬉しい、と。 キイ、カタン。 キイ、カタン。 金属が軋む音とタイヤのゴムがすり減る音が同時に響く。 「イーリャ、もっとはやく押してよ。」 漆黒の髪の毛をさらりと風に遊ばせながら、白い肌をした男の子が振り向いた。柔和で優し気な顔つきの東洋人、芹だった。 芹は遊歩道の脇にある川に興味津々らしい。イリヤは困ったように笑いながら、芹を諫める。 「そんなに早く車椅子を押したら、危ないでしょ。安全第一、だよ。」 「はやくー。」 イリヤが押す車いすに乗る芹の膝から下は、ぺたりと萎んでいる。芹は以前の事故で両足を車体に挟まれ、切断していた。以来、芹の世話はイリヤが勝手出ている。 車椅子を石で進みにくい河原の道を押した。ざり、ざり、とタイヤがめり込む。ようやっと水辺間際に着くと、芹はイリヤに向かって手を広げた。 「イーリャ。抱っこ。」 「うん。」 イリヤは芹を抱きかかえて、ざぶざぶと水の中に入っていく。中州にある岩の上に芹を下ろすと、白い真昼の光が沁みて思わず目を細める。手で日陰を作り、窺える空を見上げると青一色が細く長い飛行機雲に真っ二つにされていた。数秒遅れて、低く唸るような音が鼓膜を震わせた。思わず伸ばした手は呆気なく空を切り、何にも触れることは無かった。イリヤは背伸びをして空を仰いだ。キラキラと木漏れ日が頭上から降り注ぐ。深呼吸すると肺一杯に森林の瑞々しい空気が満ちた。 芹は群れを成して泳ぐ小魚に目が奪われている。川に入れない芹に変わって、イリヤがそっと一匹の小魚を掌の水槽に収めて連れて来てくれた。 例えば哀しみの置き場や、心の温め方とか。ふと見た瞬間の唯一無二の儚さと、芯の強い美しさとか。そんなもので掌をいっぱいにして、生きていきたい。 「かわいいねえ。」 「…そうだね。」 小魚は生まれたばかりの稚魚なのか、警戒心と言うものが薄く大人しく掌に収まっている。 「連れて帰っちゃダメ?」 「だーめ。みんな一緒じゃないと、可哀想でしょう?」 「はあい。」 「ああ、もうそろそろおやつの時間だよ。芹、家に帰ろう。」 「わかった。たのしみ。」 芹はイーリャを見て子供のように頬をほころばせた。 子供。 子供。 …子供? 足を切断する大事故を経て、芹の精神は幼児退行していた。 両足とバレエ。無理矢理ピリウドを打たれたショックは大きかろうと思った。だけど芹にとって辛かったのはそれだけではなかったということを、病院に見舞ったイリヤは知る事となる。 芹の身体には交通事故で負った傷よりほかに、暴行を受けた痕があったという。それは人から受けた傷で、決して偶然ではありえない代物だったらしい。 沢山傷ついて、沢山苦しんで、挙句に選手生命すら断たれてしまった。芹は自分を守るために本当の芹を殻に閉じ込めて、何も知らない幼児になった。 ちなみにイーリャとはイリヤの事を言っているらしい。幼児化した芹にはイリヤは発音しにくかったのだ。 『イーリャ。』 無邪気に笑う芹を見て、イリヤは心臓を掴まれたようだった。同時に腸煮えくり返る思いだった。芹を散々傷つけた人間がいる。生きていることに、憤りを覚えるほどだった。 夜の出来事だ。 「芹…?眠れないの。」 何かと便利だから、と一緒に眠っているイリヤと芹だった。そんな折、時々だが芹は涙を零しながらしくしくと夜泣きをした。 「…う、ぅー…。」 足がないのでイリヤに擦り寄ることもできず、只々イリヤの服の裾をきゅっと掴んでいた。それはささやかなSOSだった。 「芹。大丈夫。大丈夫だよ。」 上半身を抱き起して身体をゆらゆら揺らして、背中をさすると幾分か落ち着きは取り戻してくる。 「芹―…。」 ごめんね。

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