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第5話 バレエ・ダンサーだった、あなた。

室内にいても、水音が聞こえるほどの雨の日のことだった。ポトン、ポトンと木の葉から雨粒が落ちアマガエルの鼻先を濡らしていく。深呼吸すれば瑞々しい空気が肺一杯に満ちて、高くなった体温を冷やした。 その日、イリヤは街に買い出しに出掛けていて、芹は一人、留守番をしていた。時計の短い針が3を示す前には帰ってくるね、と言い残し、イリヤは出て行った。芹はリビングでラジオを聴きながら、読書をしていた。湖での一件から、外出を拒むようになった芹のためにイリヤは沢山の書物を買い与えた。 イリヤは理由を聞かない。真意を聞かないのだ。今の芹には、それが心を軽くした。あの日、何となくその場にいてはいけない気がしたのがどうしてか、芹にもよくわからなかった。ただ、知りたくないと思ったのは確かだった。黒いパズルのピースが完成に近づくにつれて、恐怖が増していった。 植物図鑑を眺めていると、不意に玄関からベルの鳴る音が聞こえた。まだ、イリヤが帰ってくるには少し早い時間。芹は自分ができることをと思い、対応しようと車椅子を動かした。 できるだけ急いで、エントランスホールに向かう。そして、玄関のノブに手を掛けた。 「はい―…、」 ガチャリと、錠が落ちる音が響いて扉が開く。そこにはずぶぬれの状態の一人の青年が立っていた。 「すみません。ハイキング中に急に雨に降られてしまって…。少しの間、雨宿りさせてくれませんか。」 話し方こそ丁寧だったが、笑顔が怖い人だなと思った。だけど断る理由が幼い芹にはわからず、つい中に招き入れてしまった。 「ありがとうございます。助かります。」 「ううん…、」 車椅子を軋ませながら動かして、リビングに案内する。雨はもうすぐ止むはずだ。ラジオでそう流れていた。だから、それまで我慢していればいいのだ。 移動したリビングでソファに座りながら、青年は芹を見つめていた。居心地が悪く、芹は何となく視線を逸らしてしまう。カチコチと置時計が時を刻む音が響いていた。 「…あの、」 「え?」 「失礼ですが、セリ・ミズチさんですか?」 何故、名前を知っているのだろう。 芹は小首を傾げながら、頷いた。 「やっぱり。どこかで見た顔だなと思ったんですよ。イリヤさんと今、一緒に居ると聞きましたが、どちらに?」 「…イーリャのことも知っているの?」 「ええ。有名なバレエ・ダンサーですから。」 知らなかった。イリヤがバレエの踊り手だったなんて。芹は好奇心に負けて、つい聞いてしまった。 「イーリャはどんなダンサーだったの?」 「そうだなあ。俺より詳しい奴がいるので呼びますか?」 そういうと青年は携帯端末を取り出して、何やら操作した。その5分後に、芹は呼吸を詰まらせることとなる。 「ちょっと遅くなっちゃったな…。」 イリヤが食材などの大荷物を抱え、車から降りてきた。小雨になった雨を避けるように急いで玄関に向かう。水気を軽く落として、玄関の鍵を開けようとすると、既に空いていることに気が付いた。閉め忘れたかな、と首を傾げながら家の中に入った。 「ただいま、芹―…」 声を掛ける途中で気がついた。家の奥、リビングルームの異常な気配に。微かな泣き声と衣擦れの音。それと、複数の笑い声。 「…。」 イリヤは音をたてぬように歩き、リビングの扉に手を掛けて、そして開いた。 「何…これ。」 そこにいたのはかつてのバレエ仲間と、裸にされて組み敷かれている芹の姿があった。

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