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第10話 秘密

芹は必死に車椅子を操り、バレエスクールの医務室に急いだ。人が多く、中々前に進めない。流れるような人の波に翻弄されて、おろおろしていると一人の男性が芹に近付いた。 「お前、いい加減にしろよ。」 「!」 その人物は芹とイリヤが住む屋敷に押し入った一人だった。 「あんなの、イリヤじゃない。お前なんかがいるから、イリヤはだめになった。」 「え…、」 あからさまにぶつけられる悪意にはただ戸惑った。 「イーリャは…、ダメじゃない。」 「うるさい。黙れ。お前がイリヤについて語るな。」 「貴方は、僕たちの何なんですか?」 「何、だ?ふざけんな。お前こそ何様だ。」 芹は震える声で、正直に答えてしまう。 「…僕は…、自分が誰なのかわからない。だから、その質問には答えられないよ。」 「何、意味不明なことを…。」 「僕には記憶がない。そのことでイーリャを困らせているなら謝る。イーリャを馬鹿にするのは許さない。イーリャは、ダメじゃない!」 最後は叫びに近い、芹の声だった。 「記憶、がない?ふーん。随分、都合がいいなあ。何?じゃあ、あのことも覚えてないんだ?」 「あのこと…?」 「お前の愛しい『イーリャ』の弱さの秘密だよ。ばらしてもいいんだ、こっちは。」 「! やめて!!」 イーリャを守りたい。いつも慈しみ、愛してくれるイーリャの秘密。秘密は守るものだと、イーリャは言っていた。だから、守らなきゃいけない。 「やめて、イーリャを傷付けないで。」 「お願いします、だろ。そこは。」 「…お願い、します。」 「仕方ねえな。じゃ、チャンスをくれてやる。今日の夜、またここに来い。一人で、だ。丁度、イリヤは医務室に運ばれたところだ。今日ぐらい、イリヤの目を盗めるだろ。」 「わかった。」 この約束が芹の中の時を大きく動かすことを、まだ誰も知り得なかった。 「…。」 「イーリャ!大丈夫?」 銀色の長い睫毛が震えて、ゆっくりと開かれた。そしてその瞳はぼんやりと芹を捕えた。 「せ…、り。」 「うん。ここにいるよ。」 芹はイーリャの手を取り、頬を寄せた。 「芹。」 「イーリャ、もう大丈夫だよ。ぼくがイーリャを守るから。無理をさせてごめんね。」 イリヤは芹を両手いっぱいに抱きしめた。芹は少し苦しかったけれど、我慢した。イリヤの目の淵に涙が見えた。 「ごめんね。…驚いたでしょう。」 「ううん。大丈夫だよ。」 「何でだろう。昔は、あんなにワクワクしていたのに今は…フロアに立つのが苦しくて…。」 「うん。」 「急に、息ができなくなったんだ。そうしたら、目の前が真っ暗になっちゃって…。」 「うん。頑張ってくれありがとう。」 「あー…。芹の香り嗅いだら、何か安心した。」 「犬みたい。」 芹が笑うと、イリヤもやっと笑ってくれた。 「イーリャは、ぼくが守るからね。」 「…うん。ありがと。」 「ぼく、忘れ物しちゃったみたいだから一度、レッスンルームに戻る。イーリャはここにいて。」 「一人で平気?」 「うん。平気。」 芹はふわりと微笑んだ。扉を開けて、手を小さく振る。 「行ってくるね。」

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